野田城 & 長篠・設楽原古戦場
2002・5・28
別に特別な関連性はないのだが、こちらの続きである。
足助城でおっちゃんと別れた後、R257から茶臼山方面へ向かい、長篠を目指す。
武田信玄の墓所があると言う寺を目指すが見つからず(自爆)。
途中、昼なお暗いさびしい峠道を抜け、眼下に田園風景をみながら坂をグングン下る。
千枚田(四谷千枚田)
実際に見ると谷の合間に連なる風景は、なかなかの迫力である。
案内板によると、明治37年に20日降り続いた大雨で土砕流が発生し、そこを再度開墾したらしい。
実際には1296枚の田んぼがあるそうだよ。
ふーん・・・とか案内板を見ていたら、近くを通りかかった人が
「ここは四谷千枚田って言うんだぞー」って教えてくれた。 だから何だ?と問われたら困るが(^^ゞ。
そして長篠到着。しかし既に夕刻せまり、資料館などもう閉まってるではないか。。。ショーック!(+_+)
まぁ、色々廻りたいところもあるので、今日はこのまま自宅へ引き返し、翌日再訪問する事にする。
翌日、再び9時ごろにモソモソと出発。 前日とうって変わり、なんだか雨が降りそうな天候である。
まず1発目は、自宅(豊橋)から見て長篠より手前の新城市にある城を落としにかかる。
いつもこのあたりなんか素通りなので(^^ゞ、たまにはノンビリ散策するのだ。
野田城
古くから三河地方で勢力を持っていた菅沼氏の築城・居城。
表舞台にはあまり登場しないが、天下を震わせた武田信玄上洛ルートの最終地点として有名。
三方ヶ原で徳川家康をこてんぱんにやっつけ、意気揚揚と乗り込んだ武田軍であったが、予想外に苦戦したらしい。
信玄は城内の水を絶つ為に城壁より横穴を掘り、井戸水を枯らしてようやく落城した。
城主・菅沼氏は、最後の最後まで徳川軍の援軍を待ち続けたが、過日三方ヶ原で惨敗を喫した家康は来なかった。
敗走する際、あまりの恐怖に馬上で脱糞したとまで伝わるだけに(^^ゞ、怖くて来なかったんだろう(笑)。
少なくとも、くまんぼなら絶対行かない(笑)。
「 武田騎馬軍ついに三河本格侵攻! 数日中にも尾張入りか!? 問われる信長の手腕 」
当時に中日新聞があれば、こんな見出しだったかもしれない(笑)。
武田信玄といえば「風林火山」の旗印で有名だが、実は上洛=天下獲りにおいて旗印を新調したらしい。
甲府で仕上がった旗が届いたのが、ここ野田と言われる。
「風林火山」に続く信玄の旗印=スローガンは「天上天下唯我独尊」だったと言われるが、その旗は現存しないので
単なる伝説とも言われるが・・・いずれにせよ、その旗印がはためく事はなかった。
野田城を落としてしばらくして、急遽武田軍は甲府へ撤退を開始したからである。
以前より体調不良(ガンとも)が伝えられ、とうとう上洛を断念したのである。
ここ野田で、城内より流れる美しい笛の音に惹かれ陣地を離れたところを銃で狙撃され、
その傷が元で落命した・・・という伝説もある。 (狙撃説は単なる伝説と言われ、信憑性は薄いそうだが)
まぁ、どんな事情にせよ、ここが信玄最後の戦地になったのは事実である。
「もし」・・・菅沼氏があっけなく武田に城を明渡していたら・・・信長の運命もどうなっていたかは分からない。
そう考えると、戦国史においてひとつのターニングポイントになった城址だろう。
また、後に信玄の跡目を継いだ武田勝頼は、ここから程近い長篠・設楽原で大敗し没落の道を辿る事になる。
武田家にとって、三河は鬼門だったのかもしれない。
城址はR151に隣接し、国道に対し垂直方向に残っている。
案内板に従って進むと、うっそうとした森の中に「二の丸後」などと看板が道沿いに出ており
「・・・こんなところ?」と思ったが・・・入り口から一歩足を踏み入れると、かなり驚いた。
遺構がそっくりそのまま残っており、保存状態はかなりよい。
植樹された木のおかげで、昼なお暗いうっそうとした雰囲気ではあるが、山城初心者でも楽しめるだろう。
本丸跡地には石碑と、稲荷様が祭られている。
しばらくあちらこちらガサガサと散策していると、なにやら農作業(?)をしている夫婦に出会う。
「ほぉ、あんたみたいな若いのがこんなとこに来るとは、珍しいのぉ」
・・・山城散策中によく言われる言葉である(^^ゞ・・・
「若いの、古井戸が本丸石碑の先にあるでのぉ。見ていけ」
命令形である(^^ゞ。。。しかしこういう場所で地元の情報は貴重なのでお礼を言う。
再び本丸跡地を目指し、更にその奥をガサガサ進むと・・・あったあった。(^^)
中を覗くと大きな穴がポッカリ開いている。篭城時の生命線とも言われただけに、大きな井戸である。
今までにも散々言ってるが、くまんぼはこういう場所で1時間ぐらい平気で潰してしまう(自爆)。
ここは元々から平地っぽい造りがされてる、少し変わった城なので体力を考えずにあちらこちら移動できて楽だ。
ただ、やはり何か周囲を見渡す事ができる場所が欲しいものである。
城跡というより、何か怪しい秘密基地の雰囲気なのがちょい残念(^^ゞ。。。
ここからR151を使って、いよいよ東三河で起こった最大の戦、長篠・設楽原へ向かうのである。
長篠(ながしの)・設楽原(したらがはら)の戦い
武田勝頼 vs 織田信長・徳川家康連合軍
信長軍3段構えの鉄砲隊により、本格的に鉄砲を用いた戦いとして後世に名を残すのが「長篠の戦い」である。
しかし近年では、非常に広範囲で行われた事や、地元民の活動などもあり「長篠・設楽原」と言われる事が多い。
実際に、信長の鉄砲隊が火を噴いたのは「設楽原」なので、あながち間違いではない。

■=武田軍 ■=織田・徳川連合軍
上図が大まかな長篠・設楽原における配陣および動きである。
徳川方の領地であった長篠城を取り囲んだ武田軍に対し、家康は同盟者・信長へ援軍を要請。
この時、武田軍1万5000に対し、篭城する長篠城はわずか500という兵力数である。
しかしながら断崖絶壁に建てられた城は容易に落ちず、数日後、無事信長の援軍を得られた。
(史実上は、ここまでが「長篠の戦い」)
到着した信長軍は3万8000、家康軍8000と併せて延べ4万6000もの大軍である。
あまりの兵力差に武田方・山県昌景は、総大将・勝頼に「この戦、勝ち目なし」と撤退を進言するも、
決着を急いだ勝頼はほぼ全軍を設楽原へ移動させ決戦を挑んだ。
結果、武田軍は実に1万もの戦死者を出し、大将級の諸将の大半も討死。大惨敗となった。
以上が概略である。
これから、それらゆかりの地をあっちふらふら、こっちふらふらしてみる。
実際にこの地を訪問すると分かるのだが、広範囲で戦闘が行われた事もあり、そこら中に遺構があるのだが
せっかくなので、実際に合戦が行われた様子を振り返りながらレポを修正しているのであしからず。
(実際にくまんぼが訪問した順番ではない、という事だよ)
長篠城
この地域を治めていた菅沼氏の築城。
豊川、宇連川の合流地点の断崖絶壁に位置する、天然要塞風の山城。
この地域の周辺事情の例にもれず、今川、松平、武田、徳川とネコの目のように主従関係を変えてきた。
R151に隣接するこの看板は、ご覧の通り強烈なインパクトである(笑)。
鬼のような形相で、よく見ると大事なところの剛毛まではみ出している次第だ(^^ゞ。
看板には
「命をかけて使命をはたす 鳥居強右衛門の最後!」
とある。
長篠=信長鉄砲隊の話は知ってても、彼の事を知る人は案外少ないかもしれない。
しかしながら、長篠の地では彼こそが主役なのである。
鳥居強右衛門(とりい
すねえもん)なる人物は、後にも先にも歴史の表舞台には、ここにしか登場しない。
武田軍に長篠を包囲され、篭城戦が長引きそうなのでコッソリ武田包囲網をかいくぐり岡崎城まで走り、
信長・家康に直接援軍を要請しに行った人物である。
その際、信長より「よく頑張った。あとはここで休め」と言われたにも関わらず、長篠城へ状況を知らせたい、と告げ
再び長篠へ引き返し、あと一歩というところで武田軍に見つかってしまったのである。
当時は携帯電話や無線など当然無いので(^^ゞ、篭城している連中にとっては信長軍が来るのかどうかなんて
誰にも分からなかったのである。 それゆえ強右衛門は引き返し城内に伝え、士気を高める必要があった。
磔(はりつけ)にされて、城の対岸に晒された強右衛門は、「城内に向かって援軍など来ないと言えば、褒美を出す」と武田軍に言われ応じたのだが、一転城内に向かって「もうすぐ援軍が来るぞー!あと少しがんばれー!」と叫び、
怒った武田軍によって磔のまま槍で刺されて殺されてしまう。
落城寸前であった長篠城内は、強右衛門の勇気ある行動によって士気が高まり、援軍到着まで持ちこたえたという。
むぅ・・・エライ人である。
くまんぼなら、1万5000の武田軍の包囲網をかいくぐって岡崎まで行け、なんていくら殿様の命令でも冗談ポイだ。
信長に「休め」と言われたら、遠慮なくまったり過ごす。
ましてや、敵にとっ捕まったら、即効で寝返ったであろう(自爆)。
長篠城にバイクを置いて、トボトボ散策。
百メートルほど先のR151沿いにあるコンビニ・サークルKの裏手が、大手門跡だが・・・何も無い。
かろうじて土塁っぽいものが確認できるが、いつのものかは・・・?である。
そのすぐ隣、民家のほとんど庭先(^^ゞに「蟻封塚」と言われる塚が残る。(右)
合戦で敗れた武田軍の怨霊で蟻が異常発生し、ここに供養し封じ込めたと言う伝説が残る。
左は長篠城駐車場の目の前。糧庫跡という、まぁ食糧庫の跡地。
戦時中、ここを武田軍に落とされたおかげで食糧にも困り、苦しい篭城戦だったと伝わる。
そこからJR長篠駅方面に歩いて行くと、門の跡などが残るが、ご覧のように線路に寸断されている。
駐車場の裏手から、JRの線路側に歩いて行くと遺構の跡がよく分かる。
左は、線路の反対側にある「殿井戸」と言われる井戸跡。今でも水が沸いており農業用水に使われているようだ。
本丸跡地
ただの原っぱ状態であり、少し土塁や堀は残っているものの、正直「城跡だけ」では特に見るべきものはない。
ご覧のように、合戦に従事した武将の旗印が立ち並び、なかなかの迫力である。
|
奥 |
平 |
鳥 |
石 |
本 |
徳 |
丹 |
佐 |
織 |
武 |
武 |
武 |
武 |
一 |
穴 |
山 |
馬 |
内 |
土 |
真 |
横 |
落 |
笠 |
山 |
左から、以上の武将の旗印が掲げられているが・・・しかし・・・早々たるメンバーである。
他にも織田方からは、柴田勝家、滝川一益、佐々成正、羽柴秀吉、前田利家、不破光治ら。
武田方も、原昌種、三枝守友、武田信廉らが参戦しており、さながら戦国オールスター状態(笑)。
ただ・・・武田方にある「山本勘助」は信玄時代に川中島で戦死してるので、長篠とは直接関係がない。
武田信玄の軍師(参謀役、今で言えば官房長官といったところか)として著名だが、
なぜここに旗印があるんだろうか?(^^ゞ
山本勘助は豊橋=三河の生まれなので、その関係なのかな?
また、本丸跡地には稲荷様が祭られているのだが、この場所はいわゆる「狐憑き」で有名なところらしい。
訪問した際には、ちゃんとお参りしておこう。(^^ゞ
本丸跡地をグルリと見回すと、切り立ったガケ場に建てられた事が良く分かる。
木々の向こう側には小さな滝も見えるが、現場付近への立ち入りは禁止。
すぐ隣にJR飯田線が走り、向こう側には武田軍が包囲した鳶ノ巣砦跡地(後述)が見える。
画像ではほとんど判別できないが、その砦跡地には数本の旗印が立てられ風になびいており、
武田軍に包囲された長篠城内からの眺めを演出している。
先に紹介した本丸跡地にある「落合佐平次」の旗印は、なんと敵である強右衛門の磔デザイン(^^ゞ。
強右衛門の勇気に感動し、急遽戦時中にこしらえたそうで、言うなれば「敵ながら天晴れ!」ってとこか。。。
しかし・・・正直よくこんなデザインを、武士のトレードマークともいえる旗印に使ったもんだ(^^ゞ。
ちなみに落合家は後に向井姓に改め徳川に仕えたが、これ以降ずっとこの旗印を使い続けたそうである。
子孫は我が家に伝わる旗印を見て、ビックリしたんではなかろうか(笑)。
(この旗指物は現存し、東京大学史料編さん所が保管してるよ。実物はこちら参照)
隣接する、長篠城址史跡保存館(9〜17時・火休・210円)には、
合戦に従事した奥平、徳川、織田、武田の各家紋をあしらった旗印がはためく。
内部には、上記の落合佐平次旗指物(複製)、合戦時に使われた血染めの陣太鼓(実物)など展示。
複製だけど、武田信玄の遺言書もあり(昔は実物を展示してたらしい・現在は所有者の希望で返却)。
鳥居強右衛門の墓(新昌寺)
そんな敵将からも注目された強右衛門の墓所は、「鳥居権現」として長篠城の反対側にある新昌寺にある。
この墓所から少し行ったところには、「磔場所跡地(と言われる)」の石碑もある(右画像)。
反対側から見た、長篠城址。 上中央左寄あたりに、本丸跡の旗印が見える。
左手のこんもりしたあたりが、強右衛門磔跡地(緑色の橋のようなものがJRの線路)。
R151を走っているだけでは、このような状態は想像できず、こちらからの眺めにより強固な城の雰囲気を残す。
武田勝頼本陣跡地(医王寺(いおうじ))
境内の左手脇を進むと、長篠城包囲時の武田軍総大将・勝頼の本陣跡地が残る。
勝頼の枕元に老人が現れ、「私は池の精霊である。この戦は武田不利、故に退却せよ」と忠告したが、
怒った勝頼は老人の片腕を切り落とし、翌日池の葦(あし)を見ると全ての葉が片方しか残っていなかった、
という伝説があるそうで、右画像がその池である。
今は葦も枯れてしまったようだが、数年前までは本当に片葉の葦が生い茂っていたそうだ。
伝説の真偽はともかく、勝頼は長篠攻略に時間がかかりすぎ、信長到着を機に陣をここから設楽原へ移動させる。
設楽原(したらがはら)
地図を見れば分かるのだが、設楽原は長篠城から少し離れた場所に位置する。
信長は、包囲されている長篠城ではなく、少し距離を置いたこの地に陣を張った。
おかしな行動のようだが、味方が篭城している場合、うかつに攻め入っても勝ち目が少ないので
このように少し距離を置くのである。 しかも信長にとって徳川家は家臣ではなく、同盟者である。
最悪、長篠が武田の手中に落ちても致し方ない、ぐらいの気持ちであったんだろう。
最近では、「信長は可能な限り、戦闘を避けたかったのかもしれない」という推論をする歴史研究家もいる。
この古戦場付近の目印となるのが、設楽原歴史資料館。 屋上に上ると古戦場を一望できる。
(設楽原資料館 =
9〜17:30・月休み・200円。 野田城で信玄を狙撃したと伝わる「信玄砲」をはじめ、火縄銃展示がメイン)
家康陣所跡地(八剣神社)
現在は八剣神社が祭られ、東郷中学の校門前である。
裏手の山に登ると古戦場を一望できると聞いていたが、登り口を見つけられず。残念。。。
なんでもこの裏山全体はは古墳群らしく、10個ほどの古墳があるそうだ。
あくまで信長は「援軍」であるせいか、意外にも家康陣地は古戦場地でも最前線に位置する場所にある。
家康には、三方が原でコテンパンにやられたトラウマはなかったのだろうか・・・(^^ゞ。
もしかしたら、半泣きで陣を張っていたのかもしれない。。。
その家康陣跡地の裏手に廻ると、左側が信長、中央付近が秀吉の陣所跡地が残る山が見える。
羽柴秀吉陣所跡地
少し山を進むと小さな石碑がある。 10mほど直前までクルマで行けるが、これから先へは道がなく進めない。
続いて信長陣所跡地を目指すが・・・この旅、最難関であった(^^ゞ。。。
さすがは総大将である。容易には攻め込ましてくれないのである。。。
案内板にしたがって進むのだが、道は荒れ果て、その案内板ですら折れて倒れているので、
右か左かどちらに進んでいいのか分からない始末。。。道らしきものを探しながら進むと・・・道が途切れてしまった。
ほとんど迷子である。かなりビビっていた事は言うまでもない(^^ゞ。。。
ここを訪れたのは、道中一番最後だったのだが、夕暮れも迫り、さすがに山中で迷子はまずいので
どうにか帰路を見出し、汗だくで下山。諦めて帰路についたところで、でかい案内板を発見・・・なんてこった・・・
それでも道のりは、かなり険しく、こんな有様である(^^ゞ。。。さすがは信長公である。
織田信長戦地本陣跡
そして、ようやく到着。。。つかれた。。。 稲荷様が祭られ、現場はかなり広い。
あちらこちらに山道があるのだが、どこがどこに続いているのか・・・最初のルートで行っていたら
かなりの時間を要したと思われる。。。事前調査不足を反省。。。(ーー;)
「 きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね 」
ここに建てられた歌碑に刻まれた歌である。
信長がこの地で詠んだと言われるが、信長公記などには記述がなく、真偽の程は不明。
さて・・・3万8000もの大軍を率いて援軍に来た信長軍は、到着早々設楽原に土塁を築く。
アイデアを出し着工したのは、秀吉とも言われるが、それこそが後世に伝わる馬防柵である。
全ての工事が完了した頃には、勝頼は決戦を決意し、ほぼ全軍を設楽原に移動させた。
丸山砦・激戦区跡地
両軍が最初に激突したと伝わる場所(諸説あり)。
こんもりしたところには、織田・徳川連合軍の佐久間信盛が陣を張っていたが、
あろう事か、あっけなく武田方の馬場信房に奪われている(^^ゞ。
鉄砲隊により壊滅された武田軍、というイメージが強いが実際には混戦だったようである。
開戦と時を同じくして、連合軍・坂井忠次は長篠包囲網の押さえとして配置されていた鳶ヶ巣砦を急襲した。
鳶ヶ巣砦(とびがすとりで)
長篠城とは、川を挟んだ向こう側に位置関係する。
クルマで行ける場所にあるのだが、かなり狭く急坂。 ところどころに遺構跡も見受けられる。
ここを押さえていた、武田方・武田信実(勝頼の叔父)は、予期せぬ急襲にあえなく戦死。
現在は記念碑と、戦死者の供養塔が建つ。

上記の場所から更に進むと、砦の最前線へ出て視界が一気に広がる。
赤丸が砦の恐らく物見で、旗印がたくさん建っている。
長篠城本丸跡地から見えた旗印は、ここのもので、青丸が長篠城址。
戦闘が始まり丸山砦を奪い、さすがは無敵の騎馬隊と思われる動きを見せた武田軍であったが、
信長が築いた柵のせいで思うように侵攻できず、徐々に戦局は悪化することになる。
馬防柵(ばぼうさく)
近年になって復元されたもので、なんとも殺風景な現場。 この辺り一帯が設楽原古戦場跡地。
復元された柵は約200mほどだが、この丘陵地帯に沿って約2kmもの長さでこのようなものを作ったと言われる。
当時はこの柵の向こうに、武田軍の倍の人数の織田兵が、3000丁もの鉄砲を構えていたのである。
くまんぼが武田兵であったならば、ビビって逃げ出すのは必死である(自爆)。
で・・・ここを訪問した時には、信長鉄砲隊ならぬ、近くの保育園の子供が待ち構えていた(^^ゞ。
写真撮って〜〜〜っ!! というので撮ったのだが、メアドを聞いていないので(笑)画像を送れない(笑)。
しまった。。。保母さんのメアドでも聞いておけばよかった。。。(ーー;)
異様に人なつっこく、ちと大変である(^^ゞ。 織田鉄砲隊より怖いかもしれないのである。
ここでてっぽーうったんだよ、とチビっこに案内されるの図(笑)。
ちゅーか、さすがに地元だけあって、これが何なのかよく知ってるのである。
で、これが史実を元に再現した馬防柵である(遺構ではなく、あくまで再現)。
単純に柵だけをこしらえたのではなく、空堀を作り土塁を盛って進入に備えた作りがよく分かる。
天下を目指し殺し合いが繰り広げられた場所は、400年の時を経てチビっこに支配されていた・・・(笑)。
柵の裏手はこうなっている。
上に丸太を置き、少しだけ穴を開けてある(右画像)。ここから鉄砲の先を出していたらしい。
つまり人間は、ほぼ土塁に囲まれた状態であったというのだ。
更に攻め入ってくる敵に対してはヤリで対応するので、まさに完全防御体制であったと思われる。
柵内よりの眺め
当時は、この柵の向こうに「天下最強無敵の武田騎馬軍」が悠然と配備していたのである。
いくら鉄砲を持って柵があっても、くまんぼが織田兵であったらビビって逃げ出す事は必死である(自爆)。
柵の端の方には、武田二十四将のひとり、土屋昌次・戦死の碑(右は別地にある墓)。
信玄時代より仕え、必死に勝頼をサポートしたが、柵に阻まれ壮絶な最後を遂げたと伝わり、
武田方・大将級の武将としては、最初の戦死者とも言われる。
・・・今ではご覧のようにチビっこの遊び場である(笑)。
以後、同じく二十四将では内藤昌豊、原昌種、三枝守友、そして山県昌景が相次いで戦死。
真田信綱、笠井満秀ら重臣も次々と戦死し、織田・徳川連合軍の圧勝となった。
敗走時、勝頼の周りには300人程度しか残っていなかったと伝わり、殿軍(しんがり=最後部)を務めた馬場信房は
追撃軍に追い詰められ「我は馬場美濃守、この首を手柄と致せ」と、自ら首をはねたとも言われる。
設楽原歴史資料館裏手には、鉄砲の玉が度々発掘されたようで、いくつか記念碑がある。
よく見ると「高橋玉」とか「熊谷玉」とか書いてあるが、これらは発見した人の名前だそうだ。
「高橋玉」は地元の小学生が見つけたそうで(玉は資料館に展示してある)、くまんぼも「くまんぼ玉」を
見つけるべく周辺を探したが、よくよく考えれば、そんな簡単に見つかるわきゃないのである(自爆)。
首洗池(くびあらいいけ)
資料館からJR飯田線の方へ少し進んだところにあり、人なつっこいカモがいるよ。
よくある名前だが、例にもれず戦死者の首を洗った池と言われる。
戦時中には血で真っ赤に染まったとも言われ、以後今日まで赤く濁り続けているらしい。。。
実際には成分分析の結果、鉄分が多いらしいのだが・・・ちとコワイ雰囲気である。。。(^^ゞ
信玄塚(しんげんづか)
資料館の裏手にあり、戦死者を葬ったところと言われる。
両軍併せて1万6000もの死者を出し、当然ながら戦後周辺は死体の山だったらしい。
著名な武将の墓は各所に点在するのだが、彼らはそれぞれ戦没地に埋葬され、
残った多くの戦没者がここに埋葬されたと言われる。
小さな小塚と大きな大塚があり、小塚には織田方・大塚には武田方を葬ったとも言われるが詳細不明。
武田信玄とは直接関係ないのだが、「信玄塚」と呼ばれる理由も不明。
一説には信長が命名したとも伝わるらしいが・・・。
戦後まもなく、この塚よりハチが大量発生した為、戦没者のたたりと恐れた住民が松明(たいまつ)を炊いて
供養をしたところハチは発生しなくなったといい、今でも戦没供養に「火おんどり」という祭りをやっているそうだ。
逆さ桑(さかさくわ)
JR長篠城駅にある(長篠城址入り口にも移植したものがあり)。
長篠より落ち延びた勝頼が、民家で食事をしハシ代わりに使った桑の枝を地面に逆さに挿したら
そのまんま下へ下へ向かうようにしか生えなかった、と伝わる桑の木。
勝頼が挿した、と伝わる場所の木は現在では枯れてしまったらしいが、実際にそこから枝木を移植したらしい。
・・・ホンマに下を向いて伸びているのだ・・・。
片方の葉しか生えない、片葉の葦。 狐憑き。 赤い池。 逆さに伸びる桑。 異常発生したアリとハチ。
ちょっとコワイ伝説が多く残るが、それだけ激しい戦いであった事を後世に伝えたかったのかもしれない。
この戦を機に、三河地方は家康が統治・安定し、以後大きな戦闘は行われなかった。
■長篠・設楽原の戦い(日付は旧暦、諸説あり)
4月 武田勝頼、1万5000の兵を率いて三河(愛知東部)侵攻開始
5・1 武田軍、長篠城包囲。長篠城主・奥平貞昌500の兵で篭城を決意
5・6 3000名を長篠に残し、1万2000で吉田城(豊橋城)攻撃(家康を浜松からおびきよす戦略と思われる)
5・7 徳川家康、急遽吉田城にて武田軍と合戦
5・8 武田軍、長篠再包囲のため吉田より撤退。長篠を再度全軍包囲
5・10 家康、岐阜の織田信長へ援軍要請
5・13 長篠城食糧庫陥落。 信長、岐阜より岡崎へ移動
5・14 信長、岡崎到着。 長篠城より鳥居強右衛門脱出、一路岡崎を目指す
5・15 強右衛門、岡崎到着。家康・信長に謁見、改めて援軍要請
5・16 強右衛門、長篠城目前で武田軍に捕まり磔にされ処刑される。 信長軍、長篠へ進軍開始
5・18 信長軍、設楽原極楽寺到着。更に進軍し、各諸将陣形を整えつつ馬防柵構築
5・20 武田勝頼、ほぼ全軍を率いて長篠より設楽原へ布陣移動
5・21 6時頃開戦、14時頃終戦。 武田軍1万・織田徳川連合軍6000名余り戦死。勝頼甲府へ敗走。
|
|
1.伊奈城址 宝飯郡小坂井町伊奈 1、2、3、4は別項 → こちら 5.千枚田 南設楽郡鳳来町松下付近一帯 |
|
|
1.長篠城址 補足・織田信長、武田勝頼の陣地跡は移動時の跡地も現存 |