足軽隊が行く! 桶狭間古戦場
2002・6・19訪問 ドキュメント 〜おけはざまの暑い1日

桶狭間の合戦 1560年 織田信長vs今川義元
室町幕府・足利将軍支援の為に駿府城を出陣した今川義元は、桶狭間で陣を張っていた。
信長は雨で馬の足音を消しながら、今川軍の背後を奇襲し、義元討死。
この時、今川軍の先鋒を務めていたのが、今川家に人質として送られていた松平元康(後の徳川家康)であり、
今川敗戦を機に人質生活を終え、信長と同盟を結んで岡崎城に戻り三河平定。
今川氏はこの敗戦以降、小田原北条氏に事実上吸収され没落。
以上が通説だが、両軍どのようなルートを辿ったのか? どこで戦ったのか? 今川義元の西上目的は本当に将軍支援だったのか?
・・・など、今もって確証がなく諸説ある。
「背後を突いた奇襲戦」として有名だが、近年その説よりも「正面攻撃」という見方が強い。
1560年といえば、織田一族同士の内紛の終盤戦、信長が尾張一国をようやく平定しだした時代である。
当時、東海地方の一大勢力は、現在の静岡富士〜愛知知立を統治していた今川義元。
この時代の信長は「小国尾張の田舎大名」などと後世言われるが、本当に小さな領地しかなかった事が分かる。
サッカーW杯の中休み、幸運な事に天気は最高である♪
某蒼き流星氏が訪問した時(→こちら参照)は、晴れの予報であるにも関わらず、
帰路雨に降られ「今川義元のたたりぢゃ!」と言っていたが(笑)、今回降られたらホンマにたたりである。
今回は清洲が出発点なので、まずそこまで行かなければいけない。。。都会はクルマが多く疲れる(^^ゞ。

清洲城址
清須とも称す。1400年頃の築城とされるが詳細不明。
現代では織田信長の居城として有名だが、古くより織田一族の居城であった。
信長は一族と内紛の末、この城に入り、以後尾張を平定、岐阜〜安土へと進出する事になる。
信長が、反旗を翻した弟・信行(信勝とも称す)を、病床のふりをして自らの手で葬ったのも、ここ清洲であり、
信長死後、秀吉と柴田勝家が争った、織田家家督を決める「清洲会議」の舞台としても有名。
現在建っている天守閣は、マニア泣かせの適当に作られた(^^ゞ模擬天守。
平成になってからの完成なので、そのトホホっぷりが「更に倍」になったりするのだが・・・
豊臣政権下で信長の子・信雄(のぶかつ)の時代になってから、大改修が行われ、
3重の堀を巡らし、総金箔貼り屋根瓦の天守閣が築かれた巨大な城郭であった事を知る人は少ない。
昔の日本は、今でいうところの「連邦国家」或いは「共和国制度」だったので、
「〜国」には政治の中心地として「国府」と呼ばれる地域があった(今で言えば県庁みたいなものか)。
現在でも、「国府(こくふ、こくぶ、こう、こうふ等・・・)」という字を使った地名が全国各地に残っている。
近隣に「国分寺(跡地、或いは国府宮、国府八幡など)」があれば、間違いなく「昔の県庁所在地」である。
現在、愛知県の県庁は名古屋だが、昔は愛知に「尾張」と「三河」の2国あった。
尾張国の国府は、清洲の隣町・稲沢市にあったらしい。
(稲沢のどこなのかは諸説あり。ちなみに三河の国府は現在の豊川市)
今でこそ名古屋は、東京・大阪に次ぐ大都市だが昔は本当に何にもなく、ここ清洲周辺を中心に動いていた。
名古屋(当時・那古野)は、しょせん清洲の支城にすぎなかったのである。
名古屋が現在のような大都市になるのは、江戸時代に名古屋城の拡張を始めてから。
その際、名古屋城拡張の為、ここ清洲城は取り壊され、城下町共々そっくりそのまま引越しをした。
(俗に「清洲越し」と言われ、現・名古屋城の一角にある西北見櫓が、清洲城天守そのものと伝わる)
こんな模擬天守が建っている城が、総金箔瓦?嘘こけ! と笑ってはいけないのだ(^^ゞ。
我々が想像していた以上に、この近隣は大きな町だったので、巨大な城郭が築かれていても不思議ではない。
「 思いがけない名古屋ができて、花の清洲は野となろう 」
当時皮肉っぽく言われた唄らしいが、実際、名古屋城下町ができてからは荒廃していたようである。
その後、河川の洪水などにより、文字通りキレイさっぱり流されたらしい。。。
そういえば2000年9月の東海豪雨で、水没してしまった西枇杷島町はこの近くである。
昔から水害に悩まされた地域のようである(^^ゞ。。。

城郭は、JR東海道線で寸断されており、現在天守が建つ位置に城があったわけではない。
現在の天守の反対側、JRの線路をくぐった先が元々の城郭であり、現在公園になっている。
有名な「若武者・信長」の銅像があるのだが、あろうことか、今回デジカメの電池が切れてしまい(^^ゞ、
近くの店にも売っていなかったので、公園ともども画像はない。無念ぢゃ。。。(ーー;)
天守前の小さな公園は、超ミニ城郭のような作りになっており(笑)、本丸っぽい部分に信長を祀る(中画像)。

近年の発掘調査で胴木といわれる木を並べ、その上に石垣を築いていた事が判明し、復刻されたものがある。
ちなみに戦国期、尾張地方に石垣で築かれた城郭は、清洲と小牧山ぐらいしかなかった。
模擬天守によりトホホっぽいが、江戸幕府の権力、および近年の都市開発の犠牲になった証拠でもある。
天守内は資料館になってるが、正直・・・ロクなもんがない(^^ゞ。。。 右は、「桶狭間出陣前の信長」をイメージしたものである。
■ 5月10日 今川先発隊、駿府城発。 2日後、義元本隊出陣
■
兵力は4万とする記述もあるが、実際には2万前後だったようである。
途中立ち寄った、岡崎・池鯉鮒・沓掛に計1万近く兵を残している事からも、2万あたりが妥当であろう。
■ 5月18日 義元本隊、池鯉鮒経由で沓掛城着陣 (信長動かず)
■
池鯉鮒(ちりう)は、現在の愛知県知立(ちりゅう)である。 現在でも店舗の屋号などに使われている。
一方、沓掛(くつかけ)は現在の愛知県豊明市にあり、当時、今川領の最西端に位置した前線基地のひとつ。
同じく前線基地である「大高城」「鳴海城」には、信長方の砦(小さな城)があったので、沓掛に入ったと思われる。
ちなみに、池鯉鮒・沓掛ともに元々は織田の領地であった。 一族内紛の隙を突き、今川が奪い取ったものである。
両城跡とも、今回は時間の関係で立ち寄れなかったので画像なし。
沓掛城については、流星氏のレポ→こちら参照(笑)。
流星氏のレポがあるから、ま、いいか・・・と思ったかどうかは謎である(^^ゞ。
信長に関する信憑性が高い史料として「信長公記」が有名だが、その中で信長は、
「
今川勢が尾張侵攻を始めたにも関わらず、ろくに軍議も開かず、世間話に花を咲かせ早々に寝た
」
と表現され、家臣団は「やはり、うつけ者か」と嘆いたらしい。
くまんぼが家臣であれば、とっとと今川方に寝返ったであろう(自爆)。

清洲城からの眺め
中央左に飛び出ているのが、JR名古屋駅。 そのほぼ延長線上に熱田、桶狭間が位置する。
この景色を眺めた信長に、策はあったのか? それとも行き当たりバッタリだったのか?
■ 同5月18日 今川軍、大高城への兵糧入れを松平元康に指示
■
「兵糧(ひょうろう)入れ」とは、食糧や武器など物資、および兵隊の補給の事である。
現代でもそうだが、戦争するには食糧や武器・人員の補給も大事である。
だからこそ、戦時中現場でそれをするのは困難を極めるのだが、松平元康(後の徳川家康)が
無事この大役を遂行し、「大高兵糧入れ」として歴史に名高い。
これをもって今川軍に死角はなくなったと言える。
一方くまんぼは、大高城へのアクセスに戸惑っていた。
大体の場所は把握しているものの、まったく現場に辿りつけない(^^ゞ。。。

しばらくウロウロして、ようやく見つけた案内板。
しかも指し示す方向は廃屋の隣の細い道である(^^ゞ。 都会の城跡、恐るべし。。。

大高城址
築城年・築城者不明。1500年代早々には、その存在が記録に残る。
こちらも元は織田家の領地であったが、当時今川に奪われている。
桶狭間戦後、廃城になるが江戸時代に入り志水忠宗が尾張藩より1万石で拝領。
城ではないが、邸宅を構え明治維新まで町を統治・整備していたらしい。
事実この周辺は、今でも昔の町並みを感じさせ、道路は狭く(クルマ1台がやっと通れる)路地が多い。
すぐ近くに東海道もあり、当時は賑わっていたんだろうと思わせる。 国指定史跡。
左)本丸跡 右)史跡碑

先の廃屋横の細道を進むと、左画像に出る。 いきなり曲輪跡のおでましである。
チビっこ達の遊び場、或いは雨水などで部分部分侵食しているがハッキリと確認できる。
その先を進むと、再び広い曲輪(二の丸か?)に出て、更に先に進むと右画像→上画像(本丸)に出る。
右画像の両側(鉄柵の向こう側)には、かなり大きな堀の跡が確認できる。

本丸跡地には史跡碑と八幡宮が祭ってあり、その横の林を進むと、あちらこちらに土塁跡が確認できる。
向こう側はほとんど急激なガケ場になっており、まさに山城の形状を感じさせる。
こんな都会の真ん中に、これだけのものが残っているとは驚きだ。

大高城より、鷲津砦(中央付近)&丸根砦(右端付近)を望む
土地開発が進んでいるとはいえ、切り立った形状がよく分かる。
すぐ側まで住宅地になっているので、国史跡に指定されなければとっくに削り取られていただろう。
そして松平元康(家康)も、この景色を眺めたはずである。
■
5月18日未明(深夜?) 松平元康、大高城より鷲津、丸根砦に攻撃開始
■
大高兵糧入れを成功させた義元は、そのまま元康(家康)に大高城を囲む2つの砦への攻撃を指示。
それにしても、長い移動をこなし、困難な兵糧入れをやらされた挙句、そのまま戦闘を始めろとは・・・
元康(家康)もたまったもんではない(^^ゞ。。。人質生活で苦汁を舐めさせられた元康の心境やいかに・・・
わしなら間違いなく・・・キレる(笑)。

鷲津(わしづ)砦跡 (現・鷲津砦公園)
JR大高駅のほぼ真裏に位置し、反対側は住宅地。 バイクの路上駐車もヤバそうなくらい道も狭い。
クマだかコアラみたいな謎の生き物が看板を持っており、ある意味「時代を感じさせる(笑)」地元の小さな公園。
一帯は「鷲津山」と言われる山であり、県道から入ると自転車では登れないような急坂になっている。
県道側(山ふもと)にも同じ公園があり、基本的に山全体に足を踏み入れる事が可能。
公園(左画像)から奥に入ると、ひっそりと史跡碑(右画像)が建っている。 国指定史跡。
〜 砦(とりで)って何さ? 〜
「城」まで整備されていないもので、見方によっては「城」の原型である。 「付け城」とも称す。
今風に言えば、「城=自衛隊の基地」とすれば、砦は「自衛隊の駐屯地」のようなもんであろう。
この場所の場合、今川方の「大高城」を牽制する目的で信長が築いた。
万一、大高城から兵の動きがあれば、ここから信長=清洲に連絡が入るのである。
文字通り「最前線基地」であり、当時は戦争の度にあちらこちらに作られたが、その性質上、戦後潰されたものが多い。
そのため、このような都心部に現代まで残っている事は珍しい。

「謎の動物看板」に惑わされてはいけない(笑)。
奥に足を踏み込むと昼尚暗く、かなり広い林になり、ところどころ遺構の跡を残す。
ここを押さえていたのは、信長の大叔父(祖父の弟)・織田秀敏。
信長からみて「お爺さんの弟」である(^^ゞ。。。普通なら隠居しててもおかしくないのだが、
このような人物であっても最前線に配備しなければならないほど、織田家は小さかったという事か。。。

丸根(まるね)砦跡
鷲津砦の400mほど先にある、こちらも信長方の砦で山になっている。 国指定史跡。
その名の通り「丸い円形状」であるが、もしかしたらそれがこの名前の由来かもしれない。
山頂に、丸根砦争奪戦の戦没者供養塔があり、遺構っぽい部分も見られる。
左画像の手前部分や右手のあたりは、遺構の名残でこんな形になっているんだろう。
ここを押さえていたのは、佐久間盛重。
(信長の重臣として名高い、佐久間信盛とはまったくの別人で家系も違う。 ちなみに当時「信盛」の方は善照寺砦を守っていた)

丸根砦から大高城(中央部分)を望む
向こうから兵糧を補充し、「織田がなんぼのもんぢゃいっ!かかってこんかいっ!」と元気一杯、
もしくは、「いつまで働かせる気だ!」と逆ギレした今川勢(松平軍)がワラワラと出てきたのかと思うと・・・
くまんぼならヘコんでしまい、この時点で戦意喪失である。。。(自爆)。
■ 5月19日(早朝) 信長、清洲より出陣 ■
TVドラマなどでは「出陣から決戦まで」、終始「雨天」で描かれる事が多いが、
記録には「数日間日照りが続き、暑い日であった」とある。
大高城を囲む砦への攻撃を知った信長は、いよいよ動きを見せる。
・・・と言えば聞こえはいいが、実はここでも信長は信じられないような行動をとる。
信長が好んで舞ったと言われて有名な、幸若舞「敦盛」を突然居間で舞い、
その後、具足を付け、立ったまま食事をし、とっとと単身で城を出発してしまったのである(笑)。
通常、出陣前には、お前は何人連れてどこへ向かえ、お前はこうしろ・・・などと命令するものであるが、
どうも信長はそんな事を何もしなかったようである(^^ゞ。
ましてや深夜〜早朝にかけてである。
通常ならば、軍議、兵への連絡などを考慮して、翌日出陣となってもおかしくないケースだ。
このときの様子を信長公記には、「5騎200余名を引き連れて・・・」と残している。
少し大袈裟な言い方をすれば、200人で2万人にケンカしにいったようなものだ(笑)。
慌てふためいたのは家臣団で、この後清洲城内はドタバタ劇が繰り広げられ、信長を追撃する事になる(笑)。
行き先もルートも告げられず始まったツーリングのようなもので(笑)、ほとんど電波少年のロケじゃん(笑)。
〜 幸若舞「敦盛」って何さ? 〜
「 人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきか
」
・・・というフレーズを言えば分かる人も多かろう。
信長が好んだとして有名で、彼を題材にしたドラマなどでは、本能寺で炎に包まれながら舞うシーンはもはや「通説」になっている(笑)。
「幸若舞(こうわか)」とは、歴史的事件に関連した語りにあわせて、動作の少ない舞を演じる舞踏。
室町時代に隆盛を誇ったらしいが、浄瑠璃などに押され衰退。 現在ではほとんど伝承される事はないらしい。
当時でも既に好んで舞うのは珍しかったらしく、その事を知った武田信玄が、「変わったヤツだ」と発言する記録が信長公記に残る。
「敦盛(あつもり)」は、源平合戦で著名な、平清盛(たいらのきよもり)の甥・平敦盛(たいらのあつもり)を題材にしたもの。
出典は平家物語らしい・・・けど、その内容は仏教の思想とかに関する事らしく、難しくてよく分からないよ(自爆)。
実はものすごく長い文節で、とてもHPなどで公開できるような内容量ではない。
興味があれば(ある人おるんか?(^^ゞ)図書館で調べてくれぃ(^^ゞ。
■
8:00 信長、熱田で後続隊と合流
■
熱田神宮で後続隊と合流し、正式に出陣宣言したらしい。 ・・・清洲でしろよ(^^ゞ。
ちゅーか、あんた勝手に出陣して「合流」はないだろう・・・(笑)。
この時点で兵数はようやく1000人余りになった。

上知我麻(かみちかま)神社
熱田神宮の別宮(一の鳥居(正門・R1側)手前)にある神社。
一般に熱田神宮に参拝した、と言われるが実際にはここで戦勝祈願をしたらしい。
(信長公記に記述あり。但し「参拝した」という記述は見当たらない)
「神仏を恐れぬ信長」とまで言われただけに、わざわざ参拝だけが目的で立ち寄ったとは思えず、
たまたま決起集会を行った時に、そこに神社があったので参っただけかもしれない(^^ゞ。
ここで永楽通宝(当時流通していた中国の硬貨)を数枚放り投げ、「全て表なら吉報」と宣言し、
見事全部表が出たとか、白サギが飛び立ち縁起が良いと喜んだ、とかの逸話も残る。
(この逸話が元で信長の旗印は「永楽通宝」になったんだとか・・・)
ここに到着した時点で、鷲津・丸根の砦方面からは戦火の煙が見えたという。
逸話がどこまで事実かは分からないが、少なくとも単身城を飛び出した主君・信長は圧倒的不利な情勢でありながら
演説、あるいは演出などで兵を鼓舞し、軍の士気を高めた事は間違いないだろう。
ここまでの動きを見るとムチャクチャしてるようだが、やはり相当なカリスマ性を持っていたと思われる。
わずか27歳、「尾張の大うつけ」と呼ばれた青年が、時代を動かす4時間前である。
■
10:00 信長、丹下(たんげ)砦を経由し善照寺砦に到着
■
丹下、善照寺の砦は、大高城対策の鷲津・丸根と同様、鳴海城に対する押さえの目的で築かれた。
信長はようやくここで家臣団を集め、軍議らしい事を実施している。
しかしながら、なぜ義元が大高方面では鷲津・丸根を攻撃しておいて、
鳴海方面では丹下・善照寺を攻撃しなかったのかは・・・謎である。σ(・_・)?
こちらも押さえておけば、確実に信長は桶狭間に進軍する事はできなかったのだから・・・。
尚、丹下砦の方は史跡が残っていない。

善照寺(ぜんしょうじ)砦跡
現在は小高い丘の上にある砦公園となっている。
その名の通り、元々は寺があったらしいが、信長が居た時代には既に「寺跡」だったようである。

展望台(?)が、なんだか物見櫓っぽい作りになってる(笑)。
公園の端の方は若干ながら段差があり、遺構の跡かもしれないが判断は難しい。
石垣っぽいものまであるが、コンクリートで固められ、公衆トイレが設置されているので真っ赤なニセモノ(笑)。
でも、どことなく「雰囲気」を残しているところがおもしろい公園である。

その展望台(?)から桶狭間を望む。 木々がジャマだが、結構な高台にあることがよく分かる。
■
11:00 信長軍・佐々隼人隊出陣→討死。 ほぼ同時刻、鷲津・丸根砦が陥落
■
信長が善照寺砦に到着した事を知り、これより少し先にある中島砦を守っていた佐々隼人(さっさはやと)は
援軍が来た事に勢いづき義元軍へ攻撃開始。 あえなく憤死・敗北している。
わずか300ばかりの兵だったらしいが、現状の信長軍からすれば貴重な戦力であっただけに悔やんだという。
ちなみに佐々隼人は、後年織田家臣団の中核を担う事になる佐々成政の兄である。
また、この佐々隼人隊に、当時織田家を追放されていた前田利家が密かに参戦していた事は有名。
ほぼ同時刻頃、懸命に抵抗していた鷲津・丸根の砦がついに落ちた。
鷲津の織田秀敏、丸根の佐久間盛重、共に討死。 ほぼ全滅状態だったらしい。
明らかに信長軍は追い詰められており、家臣も撤退を進言したが信長は聞く耳を持たず、突き進んだ。
砦を陥落され、勇み足とはいえ佐々隊までもが敗北している状況で、なぜ信長は歩を進めたのか?
くまんぼなら、もう間違いなくこの時点で逃げ出している(^^ゞ。。。

鳴海(なるみ)城址
丹下、善照寺の砦に押さえられていた、今川方の城。 当時の城主は今川家の重臣・岡部元信。
別称・根古屋(ねごや)城。 現在でもすぐ近くにその地名が残っている。
1400年頃の築城で、こちらも元は織田領地。家臣の裏切りで今川の手に渡る。
名鉄鳴海駅のすぐ近くで、脇に入ると旧東海道・鳴海宿の町並みである。
1590年に廃城。 現在は、住宅街に囲まれた鳴海城跡公園となっており、天守台はご覧の通り・・・(笑)。

公園の前にある、鳴海コミュニティーセンターなる建物は、城屋敷を意識して作られたのか、
よくよく見ると、屋根に金のシャチホコまでのってる(笑)。
公園周囲は土塁の名残か、壁のようになっており立ち入り禁止。
壁によじ登って覗いて見ると、ご覧のように若干遺構が残っている(中が曲輪、右が堀)。
こんな何もない住宅地にある小さな公園に、いい年こいたオッサンがウロウロしてるのである。
公園で犬の散歩中、井戸端会議をしていたマダムに怪しい目で見られた事は言うまでもない(^^ゞ。。。

大高城方面を望む
意外と高台にあることが分かる。 ここから伊勢湾岸道路が見える事には少し驚いた。
「
南は海につながり潮の満ち引きが城下まで及び、東は谷続き、西は深田、北から東にかけては山続き
」
と信長公記では表現しているが、今では埋め立てられ海ははるか彼方。。。
■
12:00 信長軍、中島砦到着。全軍合流 ■
善照寺砦を後にした信長は、ここで先の戦いで敗れた佐々隊の残党と合流。
丹下砦の守りも放棄し、全ての兵を集結させた。 それでもわずか3000名である。
ここでも家臣団は進軍を一度見直すように進言しているが、信長は聞く耳を持たず、
「
敵は長い移動、先の戦で疲労している。対してこちらは兵力を温存しているので恐れるな!
」
「
分捕りはせず切り捨てよ(首は要らんからとにかく倒せ)!
」
「
この場に参加した者、家の面目末代までの高名ゆえ、ひたすら励め!
」
と兵を鼓舞しつつ、進軍の足を止めることはなく義元本隊に向かっていた。
しかし冷静に考えると、「敵は疲れている」と言っているが、自分だって夜中からほとんど不眠不休である。
・・・タフだ(ーー;)。
余談だが、この場で佐々隊残党・前田利家が信長の前にいくつかの敵の首を持って参上したところ、
「余計な首はいらんちゅーのが分からんのか(怒)」って、えらく信長に説教くらったらしい(^^ゞ。。。
彼が信長公記に初めて登場する場面である。
■ 同時刻 義元軍、おけはざま山で休憩 ■
「桶狭間山」ではなく「おけはざま山」という表記で記録が残る。
しかしながら、地図を見れば分かるのだが、現在の古戦場跡地周辺=名古屋市緑区・豊明市には
「おけはざま(桶狭間)山」という地名は残っていない。
半径2km以内に、幕山、巻山、セト山、生山、左京山、姥子山、尾崎山、北忠治山、坊主山、殿山、九左山・・・
などなど、ざっと見ただけでも25以上の「***山」という地名が今でも残っているにも関わらず、である。
また、義元は既に大高城を包囲する砦を落としているので、そこに向かったと思われるが、
信長進軍の情報は入っているはずで、一気に攻撃をしかけてもおかしくない状況でもある。
信長が入った中島砦の後方には、鳴海城があるので「挟み撃ち」も可能だったはずだが、そういう動きはない。
はたして「おけはざま山」はどこなのか? 義元はどこに、何の目的で向かっていたのか?
場所の確定や移動理由はさておき、とにかく義元は「おけはざま山」に一旦、陣を張った。
義元は、先の鷲津・丸根砦陥落&佐々隊迎撃成功に気を良くし、あろう事かここで宴会をしていたらしい(^^ゞ。
「義元のほこ先には天魔鬼神もかなうまい」とまで豪語し、えらく上機嫌だったともいう。
地元農民に酒を差し入れられたという話もあり、実はこれが信長軍のスパイだった、という説もある。

高徳院 今川義元本陣跡
豊明市にある国史跡古戦場跡地の道路向かいにあるお寺。
境内には、義元本陣跡地の史跡碑があるが、前述したように「どこに布陣していたのか」は不明。
この碑は近年、義元直系のご子孫が位置を想像して、供養の意味もかねて建てたらしい。

戦評の松
国史跡ではない古戦場跡地(ややこしい(^^ゞ)の近くにある。
ここで、義元家臣団が軍議を開いたという伝承があり、史跡になっている。
今の松は2代目で、初代のものは伊勢湾台風で倒枯したらしい。今でも朽ちた初代松が残る(左)。
■
12:00過ぎ 信長軍、更に進軍。太子ヶ根に到着 ■
現在「太子ヶ根」という地名は残らない。単に「太子」、そしてその近くに「大将ヶ根」という地名が残る。
■
13:00 突然の豪雨。止むと同時に信長軍、義元軍に攻撃開始
■
記録によると約10分くらい、巨大な楠が倒れるぐらい激しい雷雨になったという。
多少脚色してあったとしても、現代でも突然バケツをひっくり返したような雨が短時間降る事はある。
そしてその雨が止むと同時に、信長は義元本隊に対し攻撃を開始する。

義元がどこに居たのか断定できない以上、信長の攻撃ルートも断定はできないが、
一般に言われている「迂回→背後からの奇襲」は時間関係・進軍ルート、
そして地図を見て実際に現場に足を運べば・・・まずムリがあると素人でも分かる。。。
確かに現代では都市開発が進み、当時の雰囲気を感じる事はできないが、
基本的に「道」は極端に様変わりしないもんである。
中島砦からは旧東海道があり、整備されていなかったとはいえ、当時も主要道路として存在はしていた。
迂回ルートでは適当な道が見つからず、ちと困難そうである。
そんな訳で最近は「直接正面突撃」説が有力らしいが、くまんぼが学生の頃は
「迂回して背後から奇襲した信長はスゴイ人」というような内容だったと思う。
今ではどういう風に教科書に載っているんだろうか?・・・まぁどうでもいい事だが(笑)。
先に述べたように「おけはざま山」が、どこなのか謎なので、実は「桶狭間古戦場跡地」は2ヶ所ある。

桶狭間古戦場伝説地(国史跡)
こちらはR1に大きな看板がある豊明市の跡地であり、一般的にはこちらが有名。

非常に小さな、こじんまりとした公園になっている。
左画像は、七石表と言われるもので、古くから7つの塚があって石碑が置かれていたらしい。
戦没者の供養塔説、義元討死の場所を指し示した説、墓説・・・など諸説あるが、意味・目的ともにハッキリしない。
現在も公園を取り囲むように7つの石碑が現存し、一番古いもの(画像のもの)には
「今川上総介義元戦死所 1771年建立」と刻まれている。
他にも、1876年の刻印がある今川義元の墓、1807年刻印の史跡碑が残っている。
そんな古い刻印のものがある関係で、「こここそ古戦場の跡地だろう」と断定され、一帯が国史跡に指定されている。

桶狭間(田楽坪)古戦場跡地
こちらは、先の古戦場跡地から地図上直線距離500mほどのところにある、名古屋市緑区の古戦場跡地。
規模・作り共に、上記「国史跡」版とほぼ同じくらいだが、余計な植樹などが無い分、こちらの方が公園らしい。
田楽坪は、この周辺の俗称。 一応(?)、こちらにも義元戦死の史跡碑が残る。
■
14:00 義元、討ち取られ今川軍敗走 ■
通説では、突然襲ってきた信長軍に慌てふためいて今川軍は敗れた、と言われる。
突然襲ってきたかどうかは分からないが、思うように動きが取れなかった、という事は事実のようだ。
「
土地が低く入りくんで、深田に足をとられ、草木が高く低く茂りこの上ない難所
」
当時の「おけはざま」の様子を表現したものである。
古戦場跡地周辺、例えばR1を走っているぐらいではあまり感じられないのだが、
ひとつ横道に入れば、この周辺は上下そして左右に入り組んだ複雑な地形である事がわかる。
先に述べたように「***山」という地名も多く、なるほど、昔であれば思うように動けなかったであろう。
ましてや、大雨の後である。 この周辺には今でもあちこちに池が存在する。
大雨でも降ろうもんなら、ぬかるんだ地に足を取られ移動は容易ではなかろう。
そんな状態であるから、周囲の大高城・鳴海城・沓掛城からの援軍も間に合わなかったと思われる。
しかし条件は信長軍も同じである。 なぜ信長軍は攻める事ができたのか?
一説には、織田家の領地であったが為に、地元農民が道案内などフォローをしていたとも言われる。
そう、ここは信長のホームである。アウェーの義元より「地の利」があったのかもしれない(笑)。
ちなみに、信長軍も移動は大変だったようで、多くの戦死者を出しており、後世語られるように「簡単な戦」ではなかったようだ。
総大将である信長自身、馬を下り戦闘に加わっていたという記録もあり、「勝者」ゆえに、特に語られる機会が少なかっただけであろう。
そして、もう1点。 早々に義元が討ち取られた事も勝因と思われる。
なんだかんだいって「敵の大将首」を取ったもん勝ちである。
数では絶対的に不利だったので、中〜長期戦になれば、確実に信長は追い込まれていたはずである。
その義元は、慌てふためいた家臣に見捨てられるのと同じような状態で最後を迎えたらしい。
なにせ家臣が大将を守るどころか武器も持たず、われ先に逃げ出した・・・と記録されたぐらいなので憐れだ。
・・・ま、わしも多分即効で逃げ出したと思うが・・・(自爆)。
義元は必死に敗走するも、服部小平太に槍で襲われ、傷ついたところを毛利新介に討ち取られてしまった。
ここに2万の兵に対し、わずか3000の信長軍は勝利を収める事になる。

今川義元戦死の碑
国史跡ではない古戦場跡地に石碑が残るが、本当にこの場所かどうかは不明。
この近くに、義元が馬を繋げていた木、と伝わる「ねずの木」というのがあるのだが、
その木に触ると「たたりで高熱にうなされる」という言い伝えがあるそうだ。 ここに来る人は気をつけよう(^^ゞ。

長福寺
国史跡ではない(あーもうややこしい(^^ゞ)古戦場跡地の近くにあり、境内に下記↓史跡碑、供養塔あり。

義元公首検証之跡 (左)
今川義元の首実検を行った地と伝わる。 その少し奥に桶狭間戦没者供養塔が建つ(右)。
また、一般公開はしていないが、義元に仕えた茶坊主が義元供養の為に奉納した木像などを安置してるらしい。
一説には、この茶坊主が首実検に同席したらしい。

戦人塚
国指定古戦場からほど近い場所にある。
戦没者2500名余りをまとめて埋葬した地と言われるが、信長が今川軍の死体を調べて埋めた地とも言われ詳細はハッキリしない。

戦人塚からの眺め

今川義元の墓(供養塔) (左・国史跡古戦場内、右・高徳院敷地内)
左は国史跡古戦場跡地に、右はその古戦場の向かいにある階段を登った林の中にある。
義元の墓は上記の2つの他に、首塚が静岡、胴塚が愛知に存在する。
桶狭間戦の直後、信長は清洲へ帰るついで(?)に鳴海城を攻めた。
鳴海城主・岡部元信は抵抗したものの、義元の首と引き換えならば城を明渡す、と条件を出し、
信長もその条件を受け入れ首を返却、岡部元信が駿府に持ち帰り埋葬したらしい。
一方で一旦清洲に持ち帰り、信長自身が駿府に送り返した、という説もある(信長公記はこの記述)。
いずれにせよ、駿府に戻されたのは間違いないようで、後年、浅井長政のドクロを肴に酒宴をしたとまで
言われる信長も、この頃は武士の情けを知ってた、ちょっといいヤツだったようである。
(
浅井長政のドクロで酒宴、という逸話は、後世の創作と言われる
)

大聖寺(一色城跡)
義元のもうひとつの墓所。ここは胴塚である。
また、元々この近辺は「一色城」という城があった場所でもある。
「一色」というのは、1400年代にこの近辺を治めていた一色氏の事で、彼が築城したらしい。

今川義元胴塚(左) 一色城主・一色時家の墓所(右)
首は信長に取られちゃったので、胴体だけを家臣が背負って駿府に運ぶ途中、腐敗が進んだのでやむなくここに埋葬したらしい。
ちとグロい話であるが(^^ゞ、この時代、こういうのはそう珍しい事でもない。
戦争に負けても主君の遺体を敵に渡さないようにするのも、生き残った家来の仕事であったし、
名のある武将ほど遺体や遺品は「金」になったので、欲しがる輩も多かった。
* 他の地域に「胴塚」が存在しない事 * ここは当時の今川領地である事
*
埋葬の3年後に義元の子・氏真が、ここで正式に葬式を行い墓標を建てた事
*
その旨を記した直筆の証文と位牌が寺に残っている事・・・
などから、本当にここに埋葬されているとの見解が強いらしい。
同じ場所(義元胴塚の隣)には、初代一色城主・一色時家の墓所もある。

一応(?)は城跡だけに、そこそこ周囲を見渡せるような位置にあり、夕日に染まる山を眺める。
天気もよく暑い日であったが、雨には降られなかったのでたたりは大丈夫のようだ(^^ゞ。よかった。
■ 桶狭間の後日談 ■
出陣前に熱田に参拝したという逸話があったが、信長は戦勝した御礼参りに「塀」を奉納している。
また、義元が愛用していた名刀「宗三左文字(むねみつ さもんじ)」を戦利品として入手。
「永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀 織田尾張守信長」と彫って(^^ゞ、
生涯手元に持っていた、というのは有名な話。
左文字は名刀として著名であるが、それに自分の名前と戦績まで彫るとは・・・相当嬉しかったんだろう(笑)。
ちなみに、その「佐文字」は本能寺の変の時も所持しており、本能寺の焼け跡から豊臣秀吉が探し出し所持。
のち豊臣秀頼→徳川家と渡り、再度打ち直して、信長を祀る建勲神社に奉納され現在に至る。
以前京都の博物館で見た記憶があるのだが、常時展示されてるかどうかはしらない。
奉納された、って言うくらいなので、普段は神社に納められてるんだろうけど・・・。

信長塀
戦勝の御礼参り時に奉納されたといい、当時の姿のまま、現在も熱田神宮拝殿前付近に残る。
多くの謎を残す桶狭間であるが、言葉や理論ではなく「目に見えない何か」、
例えば運とかタイミングとか・・・そういうものがどこかで作用しているようにも思える。
義元の流れを見てみると、特に落ち度らしいものは見当たらず(鳴海城が動かなかったのが不思議だが)、
本当にわずかな「隙」が、大きく歯車を狂わせてしまったのかもしれない。
そういうのって、普段のバイクの運転なんかにも当てはまる部分があるよなぁ・・・とか思いつつ、
大渋滞のR1をノタクタと「慎重」に帰路についた1日であった。
ちなみに「信長公記」は一般的に「しんちょうこうき」と読む。 ・・・「慎重」と引っ掛けたオチである(自爆)。

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織田信長 |
日時 |
今川義元 |
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5月12日 |
本隊、駿府出陣 | |
| 掛川、浜松、吉田、岡崎、池鯉鮒を経由 | ||
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5月18日 |
沓掛城、着。 大高城へ兵糧入れ | |
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未明 |
鷲津、丸根砦攻撃 | |
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信長、清洲より出陣 |
5月19日 |
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熱田・上知我麻神社に祈願? |
8:00 |
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|
丹下砦、着 |
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善照寺砦、着 |
10:00 |
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佐々隊、中島砦より出陣・敗戦 |
11:00 |
鷲津、丸根砦陥落 |
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中島砦、着 |
12:00 |
おけはざま山、着 |
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集中豪雨の後、攻撃開始 |
13:00 |
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14:00 |
義元、討死。今川軍敗走。 | |
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日付は旧暦、信長公記の記述をベースに検証(諸説あり) |
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●1 |
丹下砦 (史跡碑なし) | 緑区鳴海町丹下。県道222号線付近と思われる。 史跡碑もなく現存しない |
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●2 |
善照寺砦 | 緑区鳴海町砦。県道36・鳴海小学校裏手付近。案内板なし。 (現・砦公園) |
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●3 |
中島砦 (中島城跡?) | 緑区鳴海町下中付近。 (跡地の史跡碑があるはずだが未発見) |
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●4 |
鷲津砦 | 緑区大高町鷲津山。県道50に小さな案内板あり。(現・鷲津砦公園) |
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●5 |
丸根砦 | 緑区大高町丸根。県道50に小さな案内板あり。 |
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●6 |
鳴海城 | 緑区鳴海町花井町城。 名鉄鳴海駅近く。案内板なし。 (現・鳴海城跡公園) |
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●7 |
大高城 | 緑区大高町城山。県道59丸の内北交差点より入る。道狭くアクセス困難。 |
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■1 |
桶狭間(田楽坪)古戦場 | 緑区桶狭間北3。R1桶狭間交差点より幕山交差点すぐ。 義元戦死の碑あり。 |
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■2 |
桶狭間古戦場(国史跡) | 豊明市栄町。R1に案内板。 義元の墓あり。 |
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■3 |
高徳院 (義元本陣跡) | 豊明市栄町。R1に看板あり。国史跡古戦場の向かい側。 義元の墓あり。 |
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■4 |
戦評の松 | 緑区有松町桶狭間。 長福寺近くのJA前。 |
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■5 |
長福寺 (義元首実検之碑) | 緑区有松町桶狭間寺前。 小さな案内板あるが分かりにくい。 |
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■6 |
戦人塚 | 豊明市前後町仙人塚。 R1に案内板あり。 |
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太字は国指定史跡。 高徳院、長福寺以外は、各所基本的に駐車場なし |
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