東三河の拠点と、松平戸田氏ゆかりの地
吉田城 (今橋城・豊橋城)
● アクセス ●
国道1号に「豊橋公園」の案内標識あり。 静岡方面からは、路面電車が走っているので右折時注意。
吉田城といっても「ピン」と来ない人も多いだろう。
「吉田」は豊橋の昔の呼称で、現在でもこの城郭は「吉田城跡」と称される。(城址が残るのは、豊橋公園)
古くは「今橋」と称し、現在でも城郭のある住所は「豊橋市今橋町」であるが、
「今橋=忌まわしい」で縁起が悪いという事で「吉」の一字を入れ「吉田」に改名。 なぜ「吉橋」「今吉」ではないのか?(笑)
明治に入ってから「豊橋」になったので、「豊橋城」という名前は本来存在しない(便宜上、豊橋城と称するだけ)。
そこそこの規模を持つ地域(町)にしては、コロコロ名前を変えすぎのような気もするが(笑)、
その背景には戦国期の争奪戦も少なからず関係しているようである。
三河の中心地・岡崎と駿府の中心地・駿府との国境付近に位置する事もあり、徳川家康の三河一円平定まで、
戦国時代初期は地元の豪族であった戸田・牧野・松平、後期には今川・松平(徳川)・武田も介入し東三河の激戦区であった。
築城は1492〜1501年、もしく1504〜1521年あたりと推測され、
今川氏親(いまがわ うじちか・今川義元の父)が家臣・牧野成時(まきの しげとき)に
「
当国、馬見塚村辺に一城を築くべし 縄張りを始め下知たるべし
」 と命じた記録が残る。
付近にある「二連木城」に対抗するために築かれたらしい。
牧野氏は、1400年頃に足利4代将軍・義持の命で讃岐から呼ばれ、牛久保一色氏の家臣になったのが始祖。
成時は、今橋城(吉田城)築城時に10代将軍・義植より「三河国諸士旗頭」という肩書きを貰っている。
どれほどの権力・地位があったのかは定かではないが、少なくともこの時期、東三河一帯に幅を利かせていたのは事実である。
後年、牛久保牧野氏は滅亡した。
以後、戸田氏・松平氏とめまぐるしく城主・領主を変え、今川義元の時代には多少安定したようだが、
桶狭間で義元が戦死すると、今度は甲斐武田氏に狙われ徳川・武田の抗争が始まる。
武田氏を破った長篠合戦以降、徳川家康により三河一帯は平定され戦はなくなった。
現在のような城下町としての基盤を築いたのは、関ケ原合戦直前に池田輝政が15万石で入封してからである。
決して大きいとは言えなかった城郭の大改修を計画し、現在の基盤を築いた。
記録に残る縄張り図には、3重の堀をめぐらし、巨大な御殿2つに米蔵が確認でき、次いで天守閣の建設も始められたらしいが、
関ケ原合戦ののち、池田輝政は播磨52万石に移封され、吉田藩は15万石から3万石に減封。
縄張りはそのままに、天守閣建設は幻となった。
「たら・れば」は禁句だろうが、池田輝政は播磨で名城・姫路城を築いており、もし吉田に残っていれば・・・
あんな城郭ができていた・・・のかもしれない(笑)。
歴史に名を残す、徳川家康・今川義元などとも縁があるにも関わらず、城内の案内板に彼らの名はなく、
「池田輝政15万2000石」の文字が今も大きく残るのは、そんな思いがあっての事なのかもしれない。
最終石高は7万石で、明治維新以後も存続したが、明治6年に失火で焼失。同9年には取り壊しとなった。
現在残るのは、本丸全域と二の丸ほぼ全域、三の丸の一部。
三の丸の南側(米蔵付近)には市役所、同じく三の丸東側に美術館、二の丸曲輪に豊城中学校が建つ。
城郭全域は緑地公園として整備され、本丸跡地周辺に当時の名残を残す。
大手門は静岡県湖西市・本興寺に現存(当時の城主が寄贈したらしい)。
天守閣は最後まで作られず、本丸の四隅に櫓、中央に御殿が設置されていたらしく、現在1つの櫓のみ復元されている。

今回の撮影ポイント & 現存する遺構
(堀は全て空堀、黒は土塁)
1=左) 三の丸門跡(R1側の公園入り口) 右)
三の丸跡地
三の丸門跡地が本来「城郭としての」入り口であるが、現状では駐車場から最も遠い位置にある(笑)。
画像では見難いが、木の板(?)に「豊橋公園」と書かれた看板があるが、この門は公園らしからぬ雰囲気である。
なんでも、旧帝国陸軍歩兵第十八連隊がここにあったらしく、その時の門の跡らしい。
思いの外遺構が残っているのは、軍部が置かれていた為、土地開発を逃れたおかげか?
2=左) 二の丸門跡。
右手に二の丸御殿があった 3=右) 着到櫓跡
三の丸、二の丸はご覧のように、今ではすっかり公園化し、フル●ン像が迎えてくれる(笑)。
二の丸門と繋がっていた着到櫓跡の土塁と、少し離れた場所にある評定櫓跡の土塁が残るぐらい。
画像にはないが、評定櫓跡は土塁をそのまま花時計に改造している。
南御多門 5=左) 南御多門からの内堀
二の丸→三の丸と進むと当然、最後は本丸。 御多門は本丸への入り口。
かなり大きな堀が本丸に沿って作られ、全域残っている。
内堀、本丸に向かって左側 4=右)
本丸に向かって左側奥へ伸びる内堀
6=左) 8=中、右) 内堀

本丸(御殿跡) 吉田城・本丸の構成図
南御多門跡を進むと本丸。
元々御殿があっただけなので、内部は平坦。 もちろん今は何もない。
四隅に設けられた4つの櫓で本丸を固めていたらしく、それぞれの櫓台跡の石垣が残る。
これらの櫓は各城郭によって適当に名称を定めていただけであって、一般的には「隅櫓(すみやぐら)」と総称する
千貫(せんがん)櫓 (南御多門から左手前)
辰己(たつみ)櫓 (南御多門から右手前)
辰己櫓下から本丸の眺め 辰己櫓からの内堀の眺め
入道(にゅうどう)櫓 (南御多門から右奥)
鉄(くろがね)櫓 (南御多門から左奥)
昭和29年再建の復刻3層櫓。 内部へ入れないのがちと残念。。。
(天守閣ではない。吉田城に天守閣はなかったし、そもそも天守閣の定義は5層以上である)
明治に撮影された古写真と比較しても、まぁまぁよく似ている感じで、意外といい雰囲気である。
ちなみに古写真と比較すると、屋根の向きが90度違う(笑)。 国道1号からの眺めを考慮して変更したものと思われる。
鉄櫓の隣、腰曲輪からの眺め
櫓に登れない代わりに、隣の曲輪が展望台のようになっている。
豊川と、分かりにくいが中央付近の橋が現在の国道1号。
北御多門の虎口(こぐち)
鉄櫓から先に進むと、南御多門の正面向かいにある北御多門に出る。
(虎口は入り口に通じる通路の事で、一般的に敵の侵入などを防ぐ為に左右に大きく曲がっているのが特徴)
10) 豊川に隣接する北御多門
吉田城郭の特徴のひとつは、この「背水の陣」。
真後ろを豊川という自然で守る反面、船などによる攻撃に対する策として、石垣を高く積み上げている。
階段も前後に短く、傾斜がキツイ。 当時はこの上に塀を設け、更にそこにも櫓があった。
部分部分、安全のためコンクリートなどで石を固めているが、当時の様子が伺い知れる。
そして、ここを下ってこそ吉田城の魅力がある。
北御多門を下って、左手に進むと、こけむした石垣が続いている。
その上にのるのは鉄櫓であり、ついつい見上げてしまうのだが・・・その下に注目。
11) 池田輝政時代(400年前)の石垣
実は鉄櫓がのっている石垣は、池田輝政が築いた時代のもので、そっくりそのまま、
後世に一切何の手も加えられず、約400年前のものが現存している。
「吉田城って天守閣ないぢゃ〜ん、櫓だけぢゃ〜ん、しょぼいぢゃ〜ん」と言ってはいけない。
ここまで来て、これを見ないなんて、ハッキリ言ってお馬鹿であると断言する(笑)。
こここそが吉田城最大の見所である。
内堀周辺も、江戸期の一国一城令・廃藩置県・太平洋戦争、更には人災・天災などを乗り越えた石垣である。
400年たっても残っているという事は、日本城郭の代表的な建築方法である石垣の優れた設計理念も感じられる。
12)
先に進むと、豊城中学校と内堀が隣接している。(左=堀、右=学校)
9=左)
内堀(北御多門方面より) 右)外堀(右側が金柑丸曲輪)
今度は逆に戻って、川沿いに進むと、今まで上から見下ろしていた巨大な内堀が姿を表す。
更に先に進むと、今は通路になっている巨大な外堀にでる。 外堀の右側は、金柑丸と呼ばれる巨大な曲輪。
13=左) 右側が金柑丸曲輪 7=右) 外堀
その外堀を川方面から進むと、二の丸の東側に出る。今でも土塁の形状がよく分かる。
公園駐車場から城内に入ると、この近くに出る事になる。
「背水の陣」である事がよく分かる、城の対岸からの眺め
かつては城下に睨みを効かせていた城(左)も、今では市役所(右)に見下されている(^^ゞ。
========================================
二連木(にれんぎ)城
● アクセス ●
名古屋方面より国道1号直進、路面電車のレールに沿って県道4号へ入り「東田電停前」交差点左折。
直進→「仁連木」交差点の少し先、右側「大口公園内」。 案内板などなし。
1493年、当時の渥美田原城主・戸田宗光の築城。
戸田氏の田原からの進出目的、あるいは、既に今川氏と通じていて今川氏の豊橋進出目的支援の為・・・など築城の由来は諸説あり。
当時は真裏が豊川の支流だったらしく、かなり強固な城郭だったらしい。
今川家没落と共に、徳川家康が三河一帯を平定した頃に廃城。
明治44年に初代豊橋市長・大口喜六が土地を買収、果樹園とし、太平洋戦争後には自らの居を構え、昭和36年に市が買い取り公園化。
現在は大口公園という名称で、地名は「仁連木」。 周囲は住宅地で、背後の川も埋められている。
現在の公園が本丸跡、隣にある老人福祉センターが二の丸跡。
ちなみに、築城者・戸田宗光の子孫はニ連木に入り二連木戸田氏を名乗り、代々この地を治めてきたが、家康三河平定後には、
家康の命で信州松本に移り、徳川家との縁も深くなり松平戸田氏を名乗る事になる。
現在、国宝に指定されている松本城主を11代159年間、明治維新まで務めた家系がまさにその直系。
公園内に入って驚いた・・・この有様である。
まったく整備されず草は伸び放題で、通路と広場の区別もつかず、まさに荒廃地。。。
山の中にある山城並みの荒れようだ。
一方で城の名残は、公園周辺に土塁と堀の跡がハッキリ残る。
この土塁と堀は、公園1周分、まるまる残っている
そのまま遺構に沿ってザクザク進むと、奥には史跡碑があり、更に遺構の確認もできる。
左)公園の反対(裏)側 右)堀の跡
更に突き進み、ゲートボール場を過ぎると公園外に出るが、こちらにも土塁が残る。
そこから少し離れた場所に小さな公園があり、その奥を進むと少し大きめの堀跡に。
この堀跡は隣接する老人福祉センターへと繋がっており、本丸と二の丸を分断する堀のようだ。
思いの外、規模の大きな公園であり、遺構もそこそこ残っている。
一応「初代市長」の名を冠した公園で、松平戸田氏とのゆかりもあるので、もう少し管理して欲しいものだ・・・。