三河発祥の地・作手郷を平定せよ

愛知県南設楽(みなみしたら)郡作手(つくで)村。
三河地方の一宮・砥鹿(とが)神社を祭る霊峰・本宮山の麓付近に位置する、人口約3000人の小さな町。
山深いとはいえ、四方八方に伸びた道を伝っていけば、新城市・豊川市、岡崎市・豊田市からも程近く、
かつては静岡(遠州今川)、甲府(甲斐武田)、名古屋(尾張織田・三河徳川)方面から攻め込んでくる
武将たちが争奪戦を繰り広げた地域でもある。
その証拠に今でも村内だけで、40を超える城跡・砦跡が確認されている。

今回は現在の作手村中心部、約2km四方に現存する城を攻める。
このわずか2km四方に6つの城跡が残っているという、驚きマンモスなところだが、今回はうち4城である。

途中、新城市内に残る宇利城に立ち寄ってみる。

宇利城 うりじょう
愛知県新城市中宇利 県指定史跡

1469〜87年頃、熊谷重実により築城。 当時の東三河で一大勢力を誇っていた城郭。
戦国期に入った1530年、松平清康(家康の祖父)は臣下に加わろうとしない 熊谷実長を城主とする宇利城を攻め立てた。
結構な激戦だったようで、松平軍は苦戦したらしく、清康の叔父・松平右京介がここで戦死、城内に今でも墓があるらしい。
結局、熊谷軍の裏切りにより形勢逆転・落城し、城主・実長は山伝いに逃げ落ちたそうだ。。。
その後、松平・今川と主従を猫の目のように変えつつも存続し、吉田城(豊橋城)の支城としても活躍。
家康の三河平定後あたりには廃城になったようである。

      

周囲は田畑に囲まれた静かな場所。 しっかりと遺構が残っているようだが・・・
ご覧の有様()で荒れ放題・・・しかも入山した途端、スズメバチ(少し小さかったのでキイロスズメバチか?)と
思われる連中に威嚇を受け、ビビって引き戻してきてしまった(自爆)。
足軽隊・・・のっけから敵前逃亡である・・・(ーー;)。

ちなみに中央画像の山が宇利城のあるところで、少し離れた場所で右画像の看板を見つけた。
『 中世墓地を盗掘しないこと 』
・・・という注意書きがあるが・・・この先に何があって、どういう場所なのかよく分からない。
古墳群列でもあるんだろうか?(この付近には結構、古墳が残る)

いきなりの敵前逃亡にめげず、本宮山麓のワインディングを快調に進む。 峠を越せば、もう作手村である。
数年前までは細い山道だったのに、近年道路が整備され完全2車線化されたようだ。
道の駅まで出来て、なんだかえらく「町」っぽく変わっている(笑)。(昔はほんと「村」っぽかったんだよ(笑))

道の駅で休憩がてら地図を広げて確認してみると・・・ありゃ、道の駅の真裏の山が亀山城のようだ。
道の駅に、くまんぼ号を置き進軍開始である。

   
付近の史跡は「足軽くん」が案内してくれるよ(笑)。

亀山城の詳細はこちら(別窓)

次いで向かったのが、その道の駅の道路をはさんだ反対側にある場所。
実はここ、当初場所がどうにも特定できず後日再訪問したところである。・・・まさか、道の駅の真正面とは(^^ゞ。
「城らしい山」を探していたのが敗因で、実はここ、城と言うものの屋敷跡であった。

      

石橋城(禅正屋敷) いしばしじょう(ぜんじょうやしき)
愛知県南設楽郡作手村

築城年不明、作手奥平氏二代目・貞久の二男・久勝の築城。
城と言っても実際には屋敷跡である。 すぐ目の前が亀山城であり、単純な武家屋敷だったのだろう。
久勝の子・繁昌は1537年9月、主君への謀反が露見し貞勝(後の奥平家四代当主)に、屋敷を攻められて敗北。
この時、家臣団40人余が討死、遺体は1つの穴に埋められたそうで、土塁の上に石祠があるところ(右画像)がその場所である。
後年になり、寺の和尚が繁昌と一族の死を哀れみ時の亀山城主・貞勝に願い出、屋敷をもらい受けて寺地とした。
そんな訳で、現在は「石橋山慈昌院」という寺院で土塁しか残っていない。
禅正屋敷の「禅正」は、繁昌が「奥平禅正繁昌」と名乗っていた事に由来するらしい。

その後、足軽隊は古宮城へ出向く。

   

古宮城 ふるみやじょう
愛知県南設楽郡作手村
1571年、三河進出の拠点とするため、亀山城の監視を目的に武田信玄が築城。
築城担当者は、俗に「甲州流」あるいは「武田流」と呼ばれる城をいくつも築いた、馬場美濃守信房(*)。
強固な造りながら、武田の勢いが衰えるのに呼応するかのように、わずか2年で奥平・徳川連合軍の手によって落城。

(*)馬場美濃守信房(ばば みのうのかみ のぶふさ) 1514?〜1575
信春、氏勝、玄蕃、政光、景政、信勝、民部少輔、民部大夫・・・など幾多もの名を散見するが、一般的には馬場美濃守と称される事が多い。
軍策政策ともに優れ、築城の名手としても名高く、武田三代(信虎・信玄・勝頼)に仕えた「武田二十四将」の一人。
18歳で初陣してから、長篠で戦死するまで一度も合戦傷をおわなかったというグレートな人。 
長篠合戦では勝頼に何度も作戦を進言するが聞き入れられず、殿軍(敗走時の最後尾)を務めて勝頼を無事に退却させた後に戦死。
自らその首を切り落としたとも言われるが、言う事聞かない殿様(勝頼)を最後の最後まで守り、武田家に尽くした武人。

史跡案内人「足軽くん」が「ここだよ」と教えてくれるのはいいが・・・荒れ放題で道の判別がつかない(^^ゞ。
しばらく周辺をウロウロしていたら、農家の人に声を掛けられる。
「夏場はちょっとしんどいかもしれんな、もうちょっと涼しくなってからの方がいいよ」との事。
口惜しいが、ここは進言に従った方がよさそうと判断。
帰り間際に「向こう側に行くと、少しだけ中の様子が見えるよ」と教えていただき、反対側に向かう。

 

すると、これもんだ!( ̄∇ ̄;
冷静に考えたら、こんな盛り上がった土見て感激するのもどうかと思うが(自爆)、すごいもんはすごいのである。
画像では内部が暗くてよく見えないが、実際にはものすごい数の堀と土塁が、ずーっと奥まで見える。
もう少し草木が少なくなったらリベンジすべし!

その古宮城がある場所の、すぐ近くになにやら大きな看板が建っている。

   

見ると「豊川・矢作川 分水点」とある・・・。
なんでも、このような平地にあるのは全国的にも珍しい事だそうだが、「分水点」の意味がイマイチよく分からない。
ちゅーか、その地点・・・なんか下水道みたいになってるし(^^ゞ。。。
案内板によると、この辺りはかつて洪水などの水害が非常に多かったそうで、治水や開墾によりこんな貧弱な川に
なってしまったものと思われる。 すぐ近くに「古宮城」があるので、昔はその城も「この川」を天然の堀として利用していたんだろう。

そしてここで、この作手村近辺が「三河」という地名発祥の地と言う事を知った。
そもそも「三河」とは「乙川・豊川・矢作川」の3つを意味する事は知っていたが・・・ここがそうなのか・・・?
付近にそれを記した史跡があるというので寄ってみる事にした。

   

南設楽郡作手村と額田(ぬかた)郡額田町の境にある巴山山頂にある白髭神社。
かなりさみしい雰囲気で泣けてくる(^^ゞ。。。

         

ここに「三河発祥の地」の記念碑があり、3面柱石に「豊川」「男川(現・乙川)」「矢矧川(現・矢作川)」の文字。
普通〜に建ってる石碑()だが、実はこれ、白髭神社の御神体らしい(^^ゞ。 剥き出しかよ。。。

ただ・・・矢作川も乙川も岡崎方面に流れる川で、今では矢作ダムあたりが源流のはずだが、
どこでどういう風に「ここで枝分かれしてる」という風になったんだろうか。。。
当然の事ながら、山深い中とはいえ、「この場所」から水が出てるわけではない。 ・・・謎だ(笑)。

ちょっと釈然としない気持ちを引きずりつつ下山。
近くのジャリ道から男女2人組が突然現れ、驚く(笑)。
こんな山深いところで、アベックが何してんだか・・・とエロい事を考えていたら、なにやら地図を見ている。
ハイキングのようだ・・・耳をダンボにして会話を聞いていると、そのジャリ道は遊歩道のようである。
「結構、おもしろかったねぇ〜」 「あんなところにあるとはなぁ〜」
・・・と、なにやら楽しげな会話である。
しかし肝心の「何が楽しい」のかが判らない・・・す、すごく気になる・・・この先に何があるんだろう?
そこでハイキングコースを少し進むと・・・

      

馬牧場が突如出現()。これかよ・・・
1頭がこちらに気付く()。 近くにあった干し草を差し出すと、ムシャムシャ食い出した(笑)。

      

その様子に気付いた他の馬がトコトコと、こっちに走ってきた()、結構人馴れしてるようでかわいい。
やっぱ動物は、おとなしくて愛嬌があるヤツが一番である(笑)。
ちゅーか、さっき「なんだ牧場かよ・・・」と言ってたくせに、結構楽しんでる35歳がここにいる(自爆)。

      

そのうち、えらい勢いで馬に囲まれ、ちとびびる。。。
この馬、すごく小さくて(背中の高さでわしの腰〜胸ぐらい)、馬というよりロバっぽい大きさ。
純国産の日本馬なんだろうか?
戦国時代などに使われた馬は、こんな小さなズングリしたヤツだったらしいが、こんな感じなのかな?
ちゅーか・・・よくよく考えたら、昔の日本には普通に(?)草原に馬が居たんだよね。
そういう野生馬の純粋な血統種って・・・もう絶滅しちゃったのかね?

     

少し寄り道(といっても、まぁまぁ近くにあるのだが)して甘泉寺へ。
長篠合戦篭城戦のヒーロー・鳥居強右衛門の墓があり、以前立ち寄った墓所(長篠城の近く)とは別に存在する。
長篠城の墓所は、どちらかというと「葬る」というより「祭られてる」ようで、確かに現場には「鳥居権現」とあった。
こちらには位牌もあるようなので、どうもこちらが本物(?)のお墓のようだ。
しかも、信長の命令によりここに葬られた、との説明板があり少し驚き。
境内には国の天然記念物の「コウヤマキ」とかいうのがあったけど、説明を見ると一科一属一種の日本でしか
生息していない木だそうだ・・・・・しかし、木に興味がないので何がすごいのかよく判らん(自爆)。

その後、もう1城攻めに向かう。

      

善福寺
作手村で最も古い寺で、創建は600年前後。
山門の仁王像は東大寺・金剛力士像で著名な運慶の作との説もあるんだとか・・・ホンマかいな?(^^ゞ
言うまでもなく、向かって左が吽像・右側が阿像で、双方共に目玉には水晶を使ってるそうだよ。

      

山門から、えっちらおっちら階段を登りお寺の境内に到着。 本殿()は神仏混合の名残で、神社風。
「ここが城跡地かな?」と思ったら・・・その左先に階段()があり、そこから山に入っていくと城があるようだ。
一応丸太で出来た足場があるものの、草ぼーぼーでしんどい。。。しかもかなり急で、15分ほどトボトボ進む()。
キョリはいいのだが・・・正直、途中で引き返そうかと思ったくらい、妙〜に静かで寂しい道である。。。

そうこうしてるうちに、城跡が見えてきた・・・なんと復元櫓が建っている・・・

文殊山城 もんじゅやまじょう
愛知県南設楽郡作手村

1570年頃に亀山城の支城として奥平氏が築城。 尾根伝いで、塞之神城と連結しているらしい。
武田氏との戦争に備えて、急遽、一夜にして築いたので一夜城とも呼ばれるらしいが、縄張りは簡素。
大きな曲輪と堀切があるぐらいで、近くにある塞之神城の出城、或いは防衛上の砦や物見的な役割だったのかも。
元々古くから文殊菩薩が鎮座していた仏域らしく、山や城の名前はここからきているそうだ。
登山道はもちろん、山中の至る所に草に埋もれた地蔵があり、独特の雰囲気(^^ゞ。。。
復興された物見櫓に登れば、亀山城址や本宮山を始めとした周辺集落が一望できる。

      

今も残る文殊菩薩堂。 そのそばに復元された櫓。
ものすごく寂しい場所なんだが、当時の雰囲気を味わえるようにしてあるのは嬉しい限りである。

   

櫓には登れるよ。

   

掘切の跡(左・右側の谷間)を見つつ主郭から先に進むと、登山道はまだ続く。
尾根伝いに塞之神城があるらしいが、少しキョリがあるようなので今回はパス。

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滝山城
愛知県額田郡額田町宮崎
築城年・築城者不明。1573年には武田軍の砦として記録が残る。

帰り道に発見。 道路脇に看板しかなく登山口が見当たらない。 ちゅーか、裏手は滝だ(^^ゞ。
あとで調べたら、山の裏手の神社から登城可能らしいので、また機会があれば攻略予定。

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参考資料
  日本城郭大系9 〜静岡・愛知・岐阜
  図説中世城郭辞典2 〜中部近畿1
  東三河の戦国時代
  都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成10 中部地方の中世城館(4)愛知1
  作手戦国絵巻「歴史の小径」 〜作手村観光協会(無料パンフレット)