亀山城 かめやまじょう
愛知県南設楽郡作手村 村指定史跡
1424年頃(諸説あり)、奥三河の豪族であり作手奥平家の始祖・奥平貞俊により築城。
6代200年にわたり支配していた作手郷執政の中心地。 後年、徳川・武田勢力の境界線上に位置し、戦乱の舞台となった。
奥平家は歴史の表舞台にはあまり登場しないが、 かつては、田峯菅沼氏、長篠菅沼氏と共に「山家三方衆」として武田家の書物に
記されるほどの勢力を誇った一族であり、同時に武田家の三河方面前線基地的な役割も担っていたようだ。
後に長篠城主となり武田勝頼の攻撃に耐えた奥平信昌は、その子孫の一人。
一方で、その武田勝頼に最後まで従い運命を共にした奥平貞勝は信昌の祖父、つまり同族である。
「家」を守るがために、敵味方に別れるという苦汁の決断をしたようで、ちょうど真田家と同じような印象を受ける。
結局、長篠の戦いで勝利した信昌は、なんと家康の長女を娶り、10万石で上野国に移封。 信昌の長男・家昌も宇都宮10万石をもらう。
二男・家治と四男・忠明に至っては、家康と養子縁組をし松平姓を名乗り、徳川将軍家と強力な関係を築く事になる。
(その子孫は「奥平系松平」として、武蔵国・忍(おし)藩(現・埼玉県行田市)の藩主として幕末まで繁栄)
忠明は、作手亀山1万5千石、伊勢亀山5万石(どうも亀山に縁があるらしい(笑))のほか、大坂夏の陣直後には10万石で大坂城主に。
道頓堀の運河築造などにも従事したというから、ちょっと驚きである。
更に出世街道まっしぐら、のちに大和郡山12万石、最後は18万石で姫路城に入り西国探題大名に任ぜられたという。
松平家として優遇されてはいたのだろうが、徳川家からかなりの信頼を得ていたようで、ちょっとしたサクセスストーリーである。
それは、黄門様の「この紋所が目に入らぬか」でも有名な徳川家の家紋「三つ葉葵」の紋章を奥平系松平氏が使っている事でも分かる。
徳川家の分家とも言える数多い松平家の中でも、葵の紋を使用することを許されたのは越前松平・会津松平と、奥平系松平だけなのだから。

亀山城・縄張りイメージ
注・大まかな配置のイメージなので、実際の遺構の形状・大きさなどと必ずしも一致しません・注


本丸・二の丸と、それを取り囲む小さな曲輪によって構成される、比較的小規模な作り。
本丸・二の丸・西曲輪は事実上連結しており、この3つで主郭を成しているようだ(形状を見る限り、恐らく西曲輪は馬出と思われる)。
本丸と南曲輪・東曲輪の間には大きな堀(黒く塗りつぶした場所)があり、曲輪間にも大きな土塁を盛り防衛ラインを築いている。
(本丸・二の丸は、年代的に本曲輪・二の曲輪と称した方が正確だが、便宜上このような表現方法をしている)

   

登山道から進むと、右手に大きな小山が見える()。 これが二の丸。
坂道を登ると現れるのが東曲輪()だが、こちらは草木が被い茂り荒れている。

      

トボトボと進むと、広い場所に出る()、こちらが二の丸で左側のへこんだ部分が虎口(城への入り口)。
ちょっと分かりにくいが、二の丸は周囲を1m近い土塁で囲んである。
反転して本丸へ向かうが・・・本丸の土塁には何やら結界が張られている()・・・ちとビビる(^^ゞ。
二の丸から見た本丸への虎口(入り口)()。 坂道になっている事も関係するが、土塁はかなり高い。

      

本丸には史跡碑と休憩用のベンチ()。 ちょっと木々がジャマで思いのほか展望がよくないのが残念。
本丸も二の丸同様、周囲を土塁で囲んでいる()。こちらは二の丸より更に高く、2m近くある。
本丸から西曲輪へ()。 微妙に曲がりくねっている出入り口。奥に見えるのが西曲輪。

    

西曲輪は草がぼーぼーで、何か廃材とかが捨ててあった(^^ゞ。。。
そこから横にそれて掘跡へ降りる。 ちょっと分かりにくいだろうが、この堀、かなり大きく驚いた(左・中)。
左側が土塁で、右側が本丸になる。 土塁から見て5〜6mの深さはあろうかと思われる。
本丸に至っては、完全に見上げる状態()で10mは完全に越してるだろうな・・・。

こちらは南曲輪の先端部分。
向こう側が切り立った谷間になってるのがよく分かるっしょ? あれも人工的に掘られた堀の跡。