諏訪原城 すわはらじょう
静岡県榛原郡金谷町牧之原   国指定史跡

1569年、遠州攻略の拠点として武田信玄が馬場美濃守信房に築かせた、金谷五砦のひとつ。
当時は金谷城と称したようだが、実際には極めて簡素な造りで、単純な砦だったらしい。
信玄没後、跡目を継いだ勝頼が、高天神城攻略を目的に、1573年に大改修をし現在の規模になる。
この時に武田家の守護神・諏訪大明神(諏訪神社)を城郭内に祭ったことから、諏訪原城と改称。
武田軍は、高天神城攻略の勢いそのままに三河へ進軍するも長篠で大敗し、勝頼は甲斐に敗走。
その後、幾多も徳川軍に攻め込まれ簡単には落城しなかったが、甲斐からの援軍もほとんど得られずに、1575年ついに落城。
諏訪原奪還を目指し、再度攻め込んできた武田軍であったが力及ばず、のちに甲斐武田家は滅亡。
以後、三河〜遠州を平定した徳川家康により牧野(牧之原)城と改称・改修され東海道を監視していたが、1590年には廃城となった。

諏訪原城リアル縄張り図 (図説中世城郭辞典2 〜中部・近畿1 を参照にして作成)

=駐車場   =天守台跡地   水色部分=かつての水堀跡   灰色部分=道路   数字=以下で紹介する画像とリンク

戦国最強とまで言われた甲斐武田は騎馬隊が有名だが、馬だけではなく築城戦術もスゴイ事がよく分かる縄張り。
いや、馬場美濃守、そして彼に築城術を伝授したと言われる山本勘助がスゴすぎるのか?
武田城郭の特徴とも言える馬出(*後述)を複数備えた、2重3重の防衛ラインを扇状に配置した作りが特徴的で、特に巨大な堀は圧巻!
水色部分が湧き水を利用した「水堀」だったというから、尚驚き!(但し現在は水がない)
本丸後方は巨大な堀、その裏手は断崖絶壁であり、本丸を支点として二の丸・三の丸が扇状に広がる形状から「扇城」の別称も。
駐車場近くの大手曲輪は、家康が東海道監視の為に築いたもので、目の前の道路は旧東海道そのもの。 近くには復元された石畳もあり。
削平した平坦地に築かれているので(実際には山の上に存在するのだが)、山登りの必要がないのが嬉しい。
建造物は何もないが、武田城郭の最高傑作とも評されるだけに、一見の価値あり。

駐車場から進むと、いきなりお茶畑が姿を現す(場所1)。
ここが家康時代の大手口跡地で、現在お茶畑の部分が家康の築いた大手曲輪の跡地。
正面から右手にかけて茂る森が城郭内部(史跡指定区域)で、正面奥あたりに武家屋敷があったらしい。

      
      

そこからザクザク進み右手の茂みに入っていくと・・・いきなり巨大な堀が姿を見せる(場所2)。
4号堀と呼ばれる三ノ丸周辺に張り巡らされたもので、かつては湧き水を利用した水堀だったらしい。
その規模は、幅14m・長さ221m(城内最大)という途方もないスケールで、思わず足が止まる。。。
今では水も枯れて(或いは引いていないだけか?)草木が覆っているが・・・江戸期の城郭のようなデカさ。

     

その堀を眺めなら行くと、神社のある方向へ進む。
しばらく行くと堀が寸断されている場所があり、そこは三ノ丸方面へ続く馬出の通路=土橋()。
土を埋めて作られた事から、そのまんま土橋なんだが・・・すごいのは、その橋が「ダム」の役割をしてる事。
先の4号堀の水位調整を、ここで行っていたらしい。 (場所9=黄色線が土橋)

諏訪神社が鎮守するのは、馬出の跡地。
ひっそりとして、建物も質素・・・悪い言い方すりゃショボイんだが、実はキチンと拝殿と本殿に分かれている。
画像の建物の後方に本殿がちゃんと存在し、こういう場所に祭られているものとしては珍しい作り。
皇室の愛子さまご誕生祝いの垂れ幕もあったほどなので、意外と(?)丁重に管理されているようである。

 

その神社の参道から少しズレた場所から・・・(場所3
かなり木々が深く分かりにくいだろうが、でたらめに深い堀で、ここもかつては水堀だったらしい。
右画像の右上部分に黄色で示したものが、大きさ対比。
横線が諏訪神社の拝殿、縦線が見学に来られてた人。 堀のスケールがよく分かると思う。

その後、一旦Uターンして二ノ丸方面へ歩を進める。 馬場の跡地。
木々に埋もれてはいるが、主要戦力が騎馬隊の武田らしく広大な敷地。

   
   

場所4
左) 3号掘と呼ばれる馬出を囲む掘で、長さ70m・幅14m。 ここもかつては水堀だったらしい。
右) 大外堀=絶壁に繋がる2号掘、長さ72m・幅14m

   

場所5
左に2号掘、右に4号堀を眺めながら土橋を渡り二ノ丸へ。内部は一面お茶畑と化している(笑)。
右画像の左側に見える高台は二ノ丸を分断する土塁。

場所6
本丸を守る6号掘。グルッと本丸を囲んで、そのまま広がりながら谷間に続いている。

同じく場所6
二ノ丸から本丸への唯一の侵入路である土橋からの眺め。 中央が土橋、向こう側が本丸。
土橋の左手が5号掘で長さ40m・幅13m、右手が6号掘で長さ85m・幅14mで、両者ともに空堀。
5号堀は、そのまま谷間に落ちているが、底部に階段状の段差を人工的につけた痕跡があるらしい。
逆に6号堀は、ほぼ自然の地形を利用しているらしい。
自然の地形を生かしつつ、ヤバい部分には人工的な手を加える、という築城者の意図がわかる。

      

左) 本丸跡地。 向こう側が二ノ丸方向で少々盛り上がっている。馬出のような構造だったらしい。
中) トボトボ進むと、再び盛り土された場所が見える。恐らく城郭最高所と思われる天守台跡地。
もちろん、天守閣などがあったわけもなく、実際には物見櫓などがあったらしい。
右) 右部分が天守台跡地、木々の間から外が見える。奥は搦手口(いわゆる裏手)。

   

その後、本丸の外周を回るように進むと、16号掘の看板。よく見ると・・・「この下約20m」とある(笑)・・・
この地点で、向こう側はガケっぷちだというのに、このガケ下に長さ90m・幅6mの堀を設けるとは・・・(^^ゞ。
そして道なりにトボトボ進むと・・・

場所7
少し木々が伐採され展望が開け、金谷の町並みを望む。
SLの汽笛がよく聞こえる・・・というか、突然鳴るので少しビビる(自爆)。。。

   

更に本丸外周を進むと、少々厳しい道に。。。そして谷底へ一気に降りると・・・

      

場所8
6号掘りの内部へ。 「カンカン井戸」と書かれたカンバンが立っており、素掘りの井戸跡()がある。
左画像・右側が本丸、左側が二ノ丸、中央付近が井戸)
反対側=堀の谷間方向を見ると「水の手」というカンバン。
「この先70mに水源地があり、現在は地域の簡易水道に利用されている」と書いてある。
・・・70mも先かいな・・・(ーー;) スケールのデカさに開いた口が塞がらない・・・

   

その後、堀の壁をよじ登るが、観光用に道ができてるので楽チン♪(
登った先は三ノ丸跡地・・・ご覧のような有様()。 かろうじて道の判別はできるが、荒れ放題。

   

そして諏訪神社の場所へ出て、その脇から民家の間を抜ける。 本来は、ここが大手道だったらしい・・・()。
抜けた道は旧東海道そのもの。右画像の手前部分が大手道で、向こうが駐車場。
江戸時代には既に廃城となっているので、当時ここを歩いていた旅人も「遺跡」を散策したのかもしれない。

(*)馬出=馬出曲輪(うまだしくるわ)
土塁などで囲まれた軍事施設の総称が曲輪だが、その中でも特に軍事的意味合いが強いもの。

虎口(こぐち=城の出入り口)と連結し、主要な曲輪から飛び出し、周囲を掘・土塁などで囲んだ状態の曲輪を「馬出」と称する。
虎口を守る、また出入り口にあるという事は攻撃の際にも利用されるわけで、攻防に適した作りゆえ城郭により様々な表情を見せる。
(但し、戦略的に見た場合、やはり防御施設の意味合いが強いと思われる)
形状により「半円形」のものを「丸馬出」、「四角形」のものを「角馬出」と称する。
「丸」は中世城郭、特に武田系に多く見られ、今では武田城郭の代表例とまでなっている(諏訪原城も全て丸形)。
「角」は北条系ほか、近世城郭に見られる・・・はずなのだが、江戸時代に入り「城=軍事施設」の意味合いがなくなった為か、
或いは廃城令の折に真っ先に壊されたせいか、現在では兵庫・篠山城にしか残存していない。
そのため、現存遺構では「中世の城=山城」にしかほとんど残っていない為、ある意味「レア」な遺構(笑)。

ところが困った事に、周囲を堀などで囲んでるからといって、全てが「馬出」でないところがややこしい(^^ゞ。。。
なので、ぶっちゃけた話、ハッキリとした定義が難しく、歴史学者の間でも様々な議論が交わされているので、
ここであげた例・説明は、あくまでイメージとして理解して頂きたい。


馬出の目的は、敵兵をA地点に集めるところにある。
馬出先端は堀があるため、当然攻め込めない。 必然的に敵兵はA地点(城郭に並行された通路(橋))を通るのだが、
ここに来た時点で、B地点(城郭内部)に控えている城兵から、弓矢あるいは鉄砲の攻撃を受けてしまうのだ。
もちろん、馬出内部に兵を出して挟み撃ちにしたり、馬出先端から敵兵に威嚇を仕掛ける事もする(赤線)。
また戦局が悪化し最悪の場合には、馬出と城郭を連結する橋を壊して城内への侵入経路を遮断する方法もある。
このような観点から諏訪原城を見ると、全ての入り口部分に馬出が設置されているばかりか、二の丸・三の丸部分までもが
巨大な馬出のような構造になっており、2重3重の攻防システムになっていることがよく分かる。