くまんぼの九州&山陰探題

武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。 〜山本常朝「葉隠〜聞書第一の二」より

九州探題 : 自宅(豊橋)〜大阪〜(海路で新門司)〜大分〜熊本〜(海路で島原)〜長崎〜佐賀〜実家(福岡)
山陰探題 : 山口・萩〜島根・出雲松江〜鳥取〜自宅(豊橋)

プロローグ 〜出発までの経緯

今回の旅の目的は、3つ。
(1)墓参り (2)実家訪問 (3)BSC長崎のharaさん訪問 ・・・である。

(1)の墓参りについては、もうかれこれ20年近く行っていないので、いい加減、たたられそうである(笑)。
だけど・・・遠いんだもん(^^ゞ。。。幸い不幸もなかったし。
自己紹介でも述べているように、わしは元々九州・佐賀の人間なので、当然、お墓もそっちにある。
そのうち、最も古い先祖の墓が近年中にダムの水底に沈む事を知り、ついでに訪問してきた。

(2)の実家は、パパが定年を迎え九州(福岡・大野城)に隠居した事に関する。
出発直前に連絡したら、いつのまにか大阪から引っ越したというので急遽ルートに加えた。
しかし、愛する息子に引越しの連絡なしとは・・・さすが、くまんぼパパである。。。わしゃいらん子か?

(3)のharaさんについては、承知の人も多かろう。
長崎在住でありながら、愛車であちこちに出没している彼だ(笑)。
いつもよくしてもらっているのだが、別れ際に毎回「今度長崎行きますから〜」と言っていたら、
さすがにキレたらしく「いつになったら来るんじゃ!」とお叱りを受けた次第(^^ゞ。

ついでに小難しい事を言うと、(1)と(2)は微妙にリンクしている。
つまり、パパは「自分や先祖が生まれ育った九州に骨を埋めようとしている」のだ。
そこで、ふと思った・・・くまんぼはどこに骨を埋めるのだろうか、と。
死ぬ事など考えるとは、縁起のない事でもあるし、ある意味、頭がおかしいのか? と思われそうである。
でも、たぶん、誰もが一度や二度は考えてるはずだ。
まぁ、くまんぼは独身だし、その辺で野タレ死んでも問題はないが(自爆)、せめて自分や先祖が
生まれ育った場所を、今一度目に焼き付けておくのも悪くないかな・・・

と、まぁこんな具合で九州行きを決意し、どうせなら・・・と、ついでに山陰地方を回ってきたのだ。

また、(1)の墓参りのついでに、自分のルーツも辿ってみた。
くまんぼを「リアルで知る」人は、本名を知ってる人も多いと思うが、うちの家はちと変わった苗字である。
以後、レポの文中も含めて、「家」について述べてる部位は全て「クマンボ」としているので、あしからず。
さすがに本名をネット上に晒す気はないので(笑)。 知ってる人も晒さんでくれ(笑)。

以下、簡単に「クマンボ家」についてまとめておいた。めんどくさい人は、パスしてレポへどうぞ♪

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● クマンボ家について ●

幾つか系図が現存するが、過去帳を含めて大半は博物館行きで、菩提寺に収めているものは江戸末期からである。
言うまでもなく「スタート地点」はどこまでホンマか分かったもんではない(笑)。
「クマンボ物部姓系譜」は室町後期以降、「クマンボ家系図」は鎌倉前期以降が記載され、
「クマンボ家系写」に至っては孝元天皇から始まってる(笑)。紀元前に在位したとされる第8代天皇だ(^^ゞ。
もっとも、その程度の事は誰でもやってる事で、あの徳川家康が「おれ、源頼朝の子孫だもんね」と言ってたのは有名な話である。

クマンボ家は、いずれの系図も始祖を「武内宿禰(たけのうち-すくね)」として、そこから33代後に「クマンボ」を名乗ったとしてる。
更に50代ぐらい後に「筑後(福岡)クマンボ」と「肥前(佐賀)クマンボ」に分派し、「肥前系」が嫡流を継ぐ事になる。
そんなわけで、クマンボ家の発祥は現在の福岡県久留米市周辺と思われ、現在も久留米市内に「クマンボ」の地名が残る。
筑後系は庄屋を営んでいたようで、以後歴史の表舞台にはほとんど登場しないが、肥前系は武装化し武士へ転身。
始祖から90代ぐらい後に佐賀北部〜福岡南部一円を支配し、龍造寺氏(後に九州北部全域を支配)と敵対。
かなりの策士として龍造寺氏を苦しめたらしいが、この頃が勢力分布図では最盛期で、後に龍造寺氏とは和睦。
巧妙に龍造寺氏の跡を継いだ鍋島政権下に組み込まれ、姻戚関係を築いて重臣(親類家老・外様筆頭※)として「家」を残した。
佐賀鍋島藩・川久保領4300石で明治維新を迎え、現在に至る(最大石高11600石)。
佐賀城跡地に建てられている、現在の佐賀県庁付近に江戸時代には屋敷があったらしい。
家紋は、正紋が「左三つ巴」、副紋が「立ちの龍」(時代によっては「立ち二引両」、「木瓜」、「梅鉢」も使っていたらしい)。
戦国時代の旗印(軍旗)は「白地に平角と立ちの龍」、もしくは「白地に三つ水色立ち二引両」。

ちなみに、くまんぼパパは次男坊で嫡流を継いでいないので、自動的にくまんぼの代から庶流になる。
「三河クマンボ家」でも興してやりたいところだが、嫁も子供もいないので、この系統は断絶必死(^^ゞ。 弟の頑張り次第だ(自爆)。

〜 主なご先祖様一覧 〜

武内宿禰
たけのうち-すくね
日本書紀によると第8代天皇・孝元天皇の第5子の孫(古事記では、孫ではなく子供と表記)。
成務・仲哀・応神・仁徳の各天皇に仕えたといわれる人物で、日本最初の摂政大臣。
大臣在位244年、295歳(諸説あり)まで生きたと言われている(笑)。
応神天皇を身ごもっていた神功皇后が朝鮮半島へ遠征する時に、右腕として軍事を補佐。
応神天皇は、お腹の中にいる時から戦争を体験しているという前述の故事から、
古くより軍神=八幡大神として崇められてきた。
縁起を担ぐ戦国武将などには、深く信仰されたわけだが、神功皇后を補佐した武内宿禰も古くから
崇められ、いつのまにか八幡神の守り神(神号・高良玉垂命)として祭られる事になる。
現在でも、多くの八幡宮の摂社として祀られている事が多い。
尚、神功皇后の朝鮮遠征時の活躍を認められ、「まるで神様のかわりみたいぢゃん♪すげーよ!ビバ」
って皇后に誉められた事が、クマンボ家の名前の由来になっているそうだ。
言うまでもなく、この人物のDNAが組み込まれているかどうか、極めて怪しい(笑)。
そもそも、実在した人物かどうかでさえ、怪しさ満点である。。。
とりあえずクマンボ家の始祖という事で、八幡神共々、クマンボ家の氏神様になってる。
クマンボ良続
 -よしつぐ
武勢麻呂良続とも。 系図によれば、武内宿禰から33代目。
高良大社の大祝家から独立し、武人化して最初に「クマンボ」姓を名乗った人物。
姓は武内宿禰の故事に由来にし、朝廷から授かったとされている。
クマンボ民部少輔良忠
 -みんぶしょうう-よしただ
1274年、日本に侵攻してきた蒙古軍迎撃の時に、九州中南部の御家人を北上させる目的で、
当時の交通の難所であり要所だった筑後川に橋(クマンボ渡し)を架けたとされる。
そのおかげで多数の軍勢が迅速に通行できたと中央政権から評価され、
1275年に幕府執権・北条時宗、1310年に同じく執権・北条高時より感状を与えられた。
(感状は勲功表彰状として、現在も高良大社に所蔵)
以降、代々「橋」を管理し、跡地には今も橋が存在する。
クマンボ大和守良基
 -やまとのかみ-よしもと
系図によっては「勝元」とも。
1336年に室町幕府の開祖・足利尊氏が九州下向(肥後菊池征伐)を実施した際、足利軍に合流、
軍功をあげ、その恩賞として筑後国三井郡(久留米市御井町周辺)80町の地頭職、
および足利家の家紋・二引両紋の使用許可を与えられた。
クマンボ対馬守顕元
 -つしまのかみ-あきもと
系図によっては「宗元」「利久」とも。 肥前系クマンボ家の始祖。
1500年代初め、良続の代から統治していたクマンボ村(現・久留米市内)の戦乱を収められず、
周辺豪族に追い込まれ領地を奪われ敗走、肥前地方に落ち延びた。
その時に千布城主・陣内大和守に救われ、その娘を嫁にもらいうけ、肥前に居を構える。
兄弟の元勝は、ひっそりとこの地方に身を隠して生き延び、筑後系クマンボ家に分派したとされる。
クマンボ大和守勝利
 -やまとのかみ-かつとし
1511〜1565
没落したクマンボ家の復興に努め、マイナー武将ながらご先祖様の中で最も著名。
千葉氏・三瀬氏・少弐氏といった古豪に仕え、肥前地方で初めて鉄砲を使った武将とも言われている。
最終的には山内地方(現在の佐賀北部〜福岡南部)一帯を統治。
山内二十六ヶ山の頭領として、肥前有数の兵法の達人と恐れられたらしい。
肥前を統一し「肥前の熊」とまで称された龍造寺隆信と何度も刃を交えたが、1562年に和睦。
直後に家督を譲り隠居、1565年に畑瀬城にて病没。
クマンボ刑部大輔長良
 -ぎょうぶだいう-ながよし
1538〜1582
勝利の嫡男で、1564年に父・勝利の隠居を受け家督相続。
翌1565年に勝利が死去すると、同盟関係だった龍造寺隆信の裏切りにより急襲され、逃げ落ちる。
しかし直後に、以前から親交のあった豪族たちと組んで逆に奇襲。
先祖代々の本城・三瀬城に入城し龍造寺勢と再び対決姿勢を明確にする。
翌1566年に佐賀郡に侵攻したが、1570年に龍造寺氏と再度和睦。
その後、龍造寺隆信に代わって佐賀を平定した鍋島直茂と姻戚関係を結んで軍門に下る。
佐賀藩鍋島一門(親類格)となり、川久保領主として幕末まで繁栄。
佐賀藩主関係 4代藩主・鍋島吉茂と5代藩主・鍋島宗茂は、それぞれ一時的にクマンボ家に養子入りし、
吉茂が直利、宗茂が直堅を名乗り家督を相続。 4代吉茂の正室はクマンボ左京亮直長の娘・土。

〜 補足 〜

ご先祖様居城の記録が残る城
(その他の城域は不明)
・クマンボ館 久留米市山川町クマンボ
 クマンボ良続(クマンボ良光の説もあり)が築いた館。「クマンボの渡し」管理拠点。
・千布城(ちふ-じょう) 佐賀市金立町千布  クマンボ勝利の出生地。
・三瀬城 神崎郡三瀬村城山  クマンボ勝利の居城。以降、戦国末期までクマンボ氏代々の主城。
・木山城(大手城) 佐賀郡富士町小副川  クマンボ勝利の築城。
・熊之川城 佐賀郡富士町上熊川  クマンボ勝利の築城。
・野城(舞岳城) 佐賀郡富士町小副川  クマンボ勝利の築城。
・仁比山城 神崎郡神崎町小渕  鎌倉時代の古城、陣城として利用。
・甘南備城(かんなび-じょう) 佐賀郡大和町久池井  鎌倉時代の古城、金敷峠合戦時に利用。
・古湯城 佐賀郡富士町古湯  元は龍造寺氏の城。クマンボ勝利が奪い取り川上合戦で利用。
・畑瀬城 佐賀郡富士町関屋  クマンボ勝利の築城にして隠居城。勝利、最後の場所。
・土生城 佐賀市金立町千布  クマンボ長良の居城。
・御館 小城郡芦刈町芦溝字クマンボ
 江戸初期、佐賀藩芦刈領支配の為に築いた館(のちに川久保領に配置換え)。
・佐賀城内家老屋敷 佐賀県佐賀市城内  佐賀藩家老時代の屋敷。
クマンボ家を支えた主な家臣

 これらの人に支えられ、
 生き残った事に感謝し
 名前を記す(順不同)
・クマンボ七人衆(クマンボ家の肥前入りを補佐した重臣7名)
  三瀬土佐守宗利、松瀬又三郎能登守宗茂、杠紀伊守種満、藤原但馬守
  畑瀬兵部少輔盛政、菖蒲遠江守、栗並伊賀守
・クマンボ三家(クマンボ家の譜代家臣一門)
  三瀬家、松瀬家、杠家
梅野源太左衛門(旗本)、一番ケ瀬左近丞(旗本)、古河佐渡守(軍奉行)、
三瀬武家、三瀬安家、杠治部少輔、千布因幡守家利、阿含坊、小副川右衛門、名尾左馬之助、
広滝新三郎、江原石見守、栗並治部少輔、畑瀬越前守、畑瀬十郎左衛門、合瀬因幡守、
藤瀬藤左衛門、古河新四郎、嘉村讃岐守、八戸宗暘、西河伊予守、広滝新三郎、藤原善四郎師俊、
篠木右衛門、羽根出羽守景乗、江原新次郎左衛門、泉八兵衛、石隈五郎左衛門 ・・・など多数
葉隠
はがくれ
佐賀藩士・山本常朝(やまもと-じょうちょう)の談話を7年にわたって聞いた、
田代陣基(たしろ-つらもと)が編集した武家理論書で、正式には「葉隠聞書」という題名。 
肥前(佐賀)鍋島家本来の士風を振興する目的で、1716年頃に成立したと言われているが、
原本の存在・成立時期とも不明で、小城鍋島文庫蔵の写本が最も原本に近いとされる。
常朝の武士道論がまとめられた聞書第1〜2、鍋島藩主の言行を記した第3〜5、
佐賀藩に伝わる故事を記した第6、鍋島藩士や他藩士の言行・逸話などを記した第8〜11からなる。
現在では「武道初心集」と並び、武士道書の一級史料扱い。
その独特の武士観ゆえに禁書的な取扱いをうけ、明治維新以前には公刊されることがなかった。
当時世の中に出回ったのは、写本のそのまた写本というような「裏本」として流通したが、
全国の武士に大きな影響を与えたと言われる。
内容は極めて難解で、ほとんど哲学書(笑)。 現在の学者間でも多数の解釈が見られる。
ちなみに、最も有名な一節、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」は、死に対する美学などではなく、
 常に死を意識し覚悟して生きていれば、一生涯失敗とは無縁で無難に職務をこなせるはずだ・・・
と説いており、むしろ、死を「生き恥」となじっている部位もある。

小さい字で申し訳ない(^^ゞ。。。

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参考資料:
 日本城郭大系17〜長崎・佐賀
 日本城郭大系18〜福岡・熊本・鹿児島
 図説日本城郭大辞典3
 戦国人名辞典(増訂版)
 戦国大名家臣団辞典・西国編
 三百藩家臣人名辞典7
 姓氏家系辞典
 戦国九州軍記
 九州戦国合戦記
 佐賀の戦国人名志
 肥前鍋島家分限帳
 五ヶ国御領地之節配分帳(隆信公幕下着到帳)
 福岡県の歴史散歩
 佐賀県の歴史散歩
 葉隠(全三巻)
 鍋島論語葉隠全集(全二巻)
 原文対照註釈葉隠(全三巻)
 クマンボ家とその一族(全国クマンボゆかりの会機関紙)
 クマンボ本千葉系図